1月13日 グロージェクラブ
「2024年やりたいこと」
1月13日10時〜12時 参加費2000円
駐車場は市役所駐車場をご利用ください
「2024年やりたいこと」
1月13日10時〜12時 参加費2000円
駐車場は市役所駐車場をご利用ください
この2ヶ月間ぐらい久しぶりにジタバタしたハート笑。陽当たり良好もあれば陽の当たらない所は必ずあるもの。陽が強くなれば陰も必然的に濃くなるもの。。自然の摂理のようなものだとやっと思えた。隣の芝生が蒼く見えてしまう錯覚を、自分を丁寧に大事にすればいい。大事にするって、もろさ弱さ未熟さを自覚してこの私を受けいれたり、誰かに教えてもらったり協力してもらったり自分の感覚を修正したり、今年もたくさんの方にお世話になって直接御礼言える方と間接的なお陰様あってと身に染みて感じている。来年は私を変えたいと思っている。スマホは古い機種でも中身はバージョンアップされていく、このタイミングで私もスマホのように新しいプログラムとアプリをとりいれていきたいと思う。古い機種は愛着も馴染みもあるけど、中が変われば新しく楽しめるはずーー
あまり変化のない日常になるのはしかたないかもしれない。だから何で変化をつけ何でテンションあげるかの工夫がその方の生き方(生活)になるのだと思う。お越しいただくお客様との会話からのスイッチもあれば、お店以外での活動で会う方から教わる工夫と活きる知恵を拝借してスイッチ。世界のいろんな国で年末年始の捉え方が違うけど、日本は終わり良ければ総て良し。一年の計は元旦にあり など年末年始の重要性を昔から言っている。昔から言われてる常識は良識じゃなく間違っている事もあることがサマザマ判明している時代だけど、やっぱり、昔から言い伝えられてる良いことは取り入れていきたいなぁーーって思う来年年女を迎える私・・笑 この機会なにかスイッチがはいればいいなぁーーーと私自身に期待したい。ここ2、3か月スランプになっていた私。沢山の方の励ましやアドバイスや助言を素直に感じて人生分の今、一生分の来年以降、思い込みを捨て「それもアリ」力まずもっと柔軟に・・宇宙や世界から物事を寛大に・・深刻にならずもっとライトに・・ごまかさず自分のイイ加減のバランスになっていたいなぁ ハード(身体や視覚の変化)よりソフト(もっとミエにくい部分の変化)を充実させたい。憧れや理想のなりたい自分になるように!自己満足でイイ、自己満足できるようにしたい、進歩はまだできる可能性はあるなーーーって思えてきてるこの年末、ステルス値上げならぬステルス変化を自分の中に取り入れて・・笑。
12月半ばになり・・2023年もわずか・・その時ときどきにやってきたとは思うけど振り返ると何をしたかなぁって気持ちになる。楽しい気持ちもあれば低迷したり凹み落ち込んだりもしていたはず。スランプ真っ只中は自分でわからないもの笑 1月や2月や夏の予定もいれたりすると来年START感じる以前に今のダラダラした延長のようでしかない。はじめること、切り替えること、決意することってスイッチいれることと同じ。外からスイッチと自発スイッチ。来年お茶会で二月お点前披露することになり外からスイッチ まず着物着れるのかぁ⁉の不安材料を抱え9月動かず10月半ばスイッチいれチンプンカンプンからできない~ハテ?手が停まり?繰り返しジョジョにできるとわかるがあると嬉しく楽しくもなってきた。より美しくもっと綺麗に~ってなるとオモシロさにもなってきている。久しぶりのこの感覚!誰かに評価されるのでなく自己満足のいくより美しく着物を着る、細かいディテール、所作などの広がりは技術アップとともにおもしろい。全然できないであっぷあっぷして酸欠のような苦しさから解放されすこーしできるようになるって自分の進歩が自身で感じられた。できるようになったら当たり前のようになってしまうけど、少しの進歩を感じれるってしあわせかもしれない。
クルマが突然うんともすんともで・・・、結局バッテリーあがった為エンジンかからなかった、なぜ?バッテリーがあがったのか原因不明のまま。隣の部屋の工事が始まり駐車スペースに工事車両が停まり1か月ほどお客様にご迷惑をおかけして不便になる。お客様にもケガして不自由な生活を送られていると耳にした・・【いつもの】【普段の】【ふつう】あたりまえのようなことがあたりまえじゃなくなる そのときに気がつきありがたいなーって感謝する。地球にも生活環境にも体にも周りの人にも、あたりまえということは何一つ存在してないことを感じる。例え無人島で一人になり自然という地球の恵みで生きることができる私。自分一人で完結できることなんて何ひとつない。目に入るぜーーーーーーーんぶ自分が購入したものOR地球からの恵み、0からつくったものは何もない。例えばコーヒーを淹れたのは私でも、水もケトルも電気もコーヒー豆もマグカップも全部知らない誰かのお陰で飲むことができる。有難いこと・・・なにひとつできない私が生きていれるのも今の世の中だからだ。全て知らない誰かの手と労力がかかっていることを忘れちゃいけない。物々交換で生きていた時代だったら私はいきれてない。今はモノの代わりにお金を支払う、そのお金も自分の労力&時間で獲たもの。買うという行為があたりまえ過ぎて沢山モノが買える場所もある【交換する】と思えば高い安いの表示の見え方がかわる。全てに沢山の人が関わっていることに感謝したい。ただモノと思うか?そうじゃないか?
もし名前がなかったら?って想像してみた。自分に名前あることが当然なので、今さら不思議って思う。私の妹の名前がもし私に名づけられたら私は違った性格の人物だったのだろうか?なんて想像してみる。おそらくだけど、ちがっただろうなーーーーってなんとなく感じる。どこで?って言われても具体的にはわからないけれど、友達からや周りから今とは違う呼ばれ方をされたらやっぱり違和感でしかないような・・・笑。苗字が変わるってどんな気分なのか私には想像さえできない笑 名前があるからその人が浮かびあがる個性。名前って不思議な存在だ。ペンギンの群れカラスの群れヌーの群れ、それぞれに名前はないけどきっと動物同士ではそれぞれ違いがわかるようになっているのだろう。私たちにはたとえ同じペンギンやカラスに見えたとしても・・。ほぼ生まれて記憶ない時から今の名前で呼ばれて私は私なのだ・・・。同姓同名がいても同じ生年月日でもわたしはわたしでしかいない。似てるような人はいても同じ人がいない唯一無二と思えば自分を自分で大事に思える。先日、姓名をみてもらい自分を知る一つになった。名前から私自身を知る経験は面白かった。オブラートに包まず言ってもらいそれを鵜呑みにも思い込むのでも刷り込むでもなく、50近い今のわたしを淡々と聞く、ガス抜き、空気の入替をする感じで私にはよかった。自分のパターンや癖、思い込み捉え方を知ることができ来年年女を迎える私には丁度いい節目になった。
自分は意識しているといても、第三者から言われて再確認して「 やってるつもり 」でいた。自分で頭で理解しているからできてるつもりで、知ってるやってると意識して気をつけてると思っていても・・・現実は、気をつけているつもりでいたと・・気づかされる、気づかされた。お恥ずかしながらそういう事がお起きた。客観的な なぜそうおもうの?どうして?って「?」~クエスチョンで問いかけられて、ハッとした。価値観、思い込み、常識、ジャッジ は似て非なるもの。全部がごちゃまぜまぜこぜになっていた。自分の価値観を常識だと思い込み、他をジャッジしていた。価値観は常識ではなく。常識は存在しなく。自分の価値観は自分の視野と経験値だけの基準でもしくは家族や身近な人達の刷り込まれたもの、環境や職場だけの中だけのコピーだと知り、スモールワールド(その社会)が全てと思い込み、それが常識だと疑うことなく思い込み、他を批判批評ジャッジしていることを気づかされた。「合う」という事が前提になると「違い」に腹をたて、「違い」が前提だと一旦は受け止めても受け流し腹立つこともない。「わかる」が前提になるとわかってくれない事で気分を害し・・・、「やること」が当然になるとやらないことに怒りが・・。自分で自分のふるまいや考え、行動に勘違いしてるかもと疑うと周囲に対してギスギスしていたことも気にならなくなる。いちばんの近道は期待しない事。そして、自分自身を疑う落ち着いた振舞いができること。
以前メイクのアドバイスをヘアーメイクさんにお願いした時、ファンデーション選びを一緒にしたり、眉毛の描き方チークの入れ方とプロの技と小技を沢山教えてもらったことがある。その際も私の骨格、髪型、雰囲気や印象などそういうものを含めてアドバイスを頂けて有難かった。骨格よりも肌色よりも本人の雰囲気や印象やイメージなどを大事にすることって、私もお洋服を紹介するときにお客様のイメージや理想や希望を大事にしている。だから、いろいろなことを聞きながらその方にシックリくるものをご紹介したいなぁーーって思っている。服がしめる割合は多いけれど、実は服よりもメイクやヘアー、アクセサリー、靴、カバンはもっともっとその方の印象づけるものになるから超大事なKEYアイテム。センスは細部に宿る!ミエナイものが大事!だと私は思っている。だから楽しく、自分らしい、自分にシックリくるようになると気分もいい。服にまったく興味のない人もいるかもしれないけれどきっと楽しさを知らないだけじゃないかなぁって最近思う。ファッションは我慢といっていた年頃や時もあったけど、今はムリしてまでオシャレするものじゃなくて自分にシックリくるものがいいと思っている。シーン、TPOに合わせてお洋服を着ることは大人の社会マナーやエチケットはいつの時代も変わらない・・これからも人が人とリアルに会いつづける時代までは・・。
誰もおしえてくれないことっていっぱいある。。教えたくない心理がはたらいてることもあるだろうしタイミングや口にして伝えにくい内容の事だってあるだろう。社会に情報が溢れているように感じさせられるけど実際はそうじゃないのかもしれない・・。さてさて、ファッションを楽しむのにYouTubeやインスタグラムなどを参考にしている方もいるみたいだけど、超具体的なコツやポイントについて誰も言ってないのはご存知だろうか?いっとき骨格診断、色診断、イエベorブルべなど流行ったけど、実際に為になり活かすことができた人がどれだけいたのだろう?活かすことのできる情報や身になる情報が具体的にないと私はカンジテル。私はパーソナルで筋トレを習っていて、先生が同じ種目でも体調コンディションや目的によって荷重回数を毎度変えてくれている。一緒に習う個人でも違う、同じ部位の筋肉の鍛え方もその本人に合わせたものにしてくれてムリなくケガなく集中して鍛えることができている。自分に合う筋トレ法もファッションも大勢にあてはまったとしても、自分にしっくり合うかどうかだということ。味覚・臭覚・聴覚だって筋肉だって、服の趣味だって個人の好みや癖や状態があるのと同じだと思う。SNSの情報がすべてじゃなく自分にシックリ馴染むこととその時の自分用にマッチしてアレンジされたものが大事だと思う。ファッションだってメイクだってヘアーだって筋トレだって食事だってその時の自分にシックリくることが何よりも大事。シックリくることはそのことに詳しい方に出逢い自分を知ってくれている方にアドバイスを頂くのがちょっと近道なのかなーーって思う。
毎日ふつうに言葉を使用していて、無作為に話しているといった感じ、、言葉でその方の本質的な心の美しさが表現されることを感じて以来、私はどうなのだろう??とフト思い返す。日ごろお客様と接してどんな表現ができているのだろう?と考えさせられる。ゴマヲスル、おだてる、建前とかそういう繕われたニセモノは言わないのが私主義。人柄を感じさせる話し方、話すリズム、言葉が選ばれて表現され伝わるのを改めて実感したから、いろんな方との会話で話される言葉にしっかり耳を傾けるようにマスマス意識するようになった。ここ最近、目に入る情報だけの判断は危険でどうなのだろう?どうなっていくのだろう?って自問して気をつけている。ファッションやおしゃれ、化粧、髪型、体型、持ち物、しぐさ、態度、表面的なものいっぱいあるけれど、それだけが良ければいいはずがないのにそこばかりに意識が向けられすぎているのが年を重ねた大人まで浸透しているのはどうかと思う。自分の目だけの判断、態度や自分の心地いい言葉だけでの判断は決して危ない。本質を知ること!本質を知るってなかなか難しい。じゃー本質ってなにか?って言われても言葉ではなかなか表すことのできないこと。荒んだ世の中疑ってかかることじゃない。どれだけ取り繕っていてもよく見せているつもりでいても、ただありのままが言葉に態度にでていることは事実だと思う。意識していきたいと思うし、表現力を磨くのが生きることのひとつなのかもしれない。
この言葉は最近使われているのだろうか・・・、真面目って表現されることがいいように育ってきた昭和世代の私。ドップリ浸ってしまっているのをつくづく残念で仕方ないと感じてしまっている。思い込み激しかったり、考えの柔軟性にかけたり適応できなかったり、うけ流したり、気にとめ方や受け止め方がどうも・・時にマッチしてない気がしてる。知っている微量の知識や見聞で判断して自分の経験値だけで判断や感想を考えを述べていること。もっともっと広い視野や大きく物事を捉えられるようになれたらいいな・・って思う。自己の一方的な視点見方よりももっと広く謙虚に受け止めることができたらいいなぁーーって思う。。先日お話していてとてもカッコイイ大人の発言をされてハッとさせられた。私には想像できない視点で物事を捉えることができる方で素敵だなぁっカッコイイなぁーーTHE・大人女性 だなと尊敬した。自分の事を短絡的感情的に主張する人が多い世の中で、ひとまず自分はおいておける真の大人女性だった。そんな女性は真面目という表現ではない。自分の考えや芯の強さは感じられるけど利己的なことは全く感じなくて凛としたものをお持ちだった。見た目じゃない女性の美しさを知る、一面との出逢う一瞬だった。言葉にはいろんな力がある、その一つに美しさをも関節的に表現できるものがあるのだなーーって。
いくら日中が暑めの気温としても・・夕暮れが早くやってくるとセンチメンタルな気持ちになってしまう。元々夕方があまり好きじゃないほう・・・笑 人それぞれ好きな時間帯ってあると思うけど・・。好き嫌いって理屈抜きであったりするから不思議だ・・、食べ物、人、タイプ、香り、色、季節、全てのものに好みの具合がある。徐々に変わりつつある。今日嬉しい事があった。久しぶりに立ち寄ってくださった親子のお客様。お洋服ジプシーになっていてオシャレは変わらずに好きだけど何となくピンとくるものが無く、久しぶりのショッピングだったそう・・そんなお客様に色色試着してもらい今の気分とマッチしたものが見つかったみたいでよかった。変わりつつあること、前と違うというのは進化と思う。年を重ねるって事がよくないってつい捉えてしまうけど、私は20代より30代より今が楽しくていい。見た目、口先や建前、表現されるものに振り回されなくなったからだと思う。それがテクニックで済むものじゃないからと思う。センスがいいって表現はオシャレだけじゃない、人とのコミュニケーションセンスに会話センス、生きるセンス、全てと思う。センスはヒトの周りあちこちに現れている。それを感じとるのも自分のセンスだと思う。頭脳よりもセンスが大事なんだと思う。相手や何かを感じとるセンスは日々ずっと磨くことができるはず。。因みに休日の夕方が心地いいのは一日を満喫したからなのかもしれない。自分の感覚次第で見え方も感じ方も変わる、たまに要注意だ。笑
茶目っ気もたまにはあってもいいと思う・・クールなスタイルもビジネスライクも時には、抜け感たっぷりのカジュアルにロゴやプリントを!!おしゃれの幅とセンスを感じるコーディネイトもGOOD!!KEY:イラストのカットソー
私のハマってることの一つが朝晩のストレッチ 40半ば体力とカラダの様子が下り坂をヒシヒシと感じている毎日、やり始めて楽しく面白く心地よくの3拍子で時間を過ごしている。何が楽しいかというと微妙な変化している様がオモシロイ。自分のカラダながら左足右足の動き、左肩右肩のスムーズさの違いだったり自分を知るのがオモシロイ。小学生の朝顔の観察に近い感覚 笑 種植えして水やりして少し土が盛り上がり、もやしのようなカイワレのような芽が出て双葉になりと・・。ちっさいちっさい微妙な変化。スグ成果や結果を求める癖が私も含め社会的に多いけれど・・結果や成果で区切れないのが生活。このカラダとつづくのが生活。周囲の圧やスピードに煽られていたりしていた時期もあったけれど今はユッタリと居れるようになってきた。周りが気になるスマホ依存とは真逆のようです。速さを何より要求された時代もあったけど、速いが一番いいのだろうか?と疑問にもつこともいいんじゃないかと思う。その時その一瞬今を五感で感じる丁寧さも大事な気がしてる。先行先行のアパレルや流行のある業界にいる私が言うのもなんだけど、ハヤリや旬、ナガレも大事だけどそろそろ成熟した真の大人なら自らの価値観や感覚で服を選んだり着たりする余裕があっていいと思う。のんびりや遅れが悪い訳じゃない、マイペースやマイスタイルで居れるというのは自分をよーーく深く知っている事の裏返し・・。そして社会や環境からセレクトとチョイス取捨選択する分別できることが大事。
ひとりごと・・・私は 思考は現実化すると思っていてそうなっていると実感も体験もしている。頭の片隅にいつもあるとフトしたキッカケ何気なく欲したことから連鎖して実り現われることがある。頭の片隅あるは、ずーーーーーーーっと意識してどんなときも想像が続いてる状態、頭の隅にないというのは「0=無い」状態でぷっつりリセットされ、切れててたまに思うぐらいの事。ビジョンや想像も理想も夢も・・ずっとあれば情報もキャッチできたり教えてくれる人や助人も現れる。私はそんな感じで今までやってこれている周りのお陰としかいいようがない。自分の興味や関心があるもの(飽きないモノ)があるのは幸せだなぁとつくづく思う。それを通して人に出会えたり教えてもらい学べる。 明治生まれの祖父に幼い頃会うたびに 賢くなりなさい と言われ続け洗脳されたせいかもしれない笑 賢いというのがお勉強、学校の成績がいいと勘違いした時期もあったけど今は違うんだなぁと感じている。賢さ というのも人それぞれの価値観なのだと思うし私は品、洗練、知性を身につけたいなぁとずーーーーっと頭の片隅にあって超願望 笑、その人のオリジナリティであっていいと思う。ただ意識する=熱(エネルギー)が大事で、それを一言でいうと極めていくということの様な気がしてる。それがなんでもどんなことでもいい気がしてる。好きがわからないなら嫌いじゃない所からが始まりでまずは一歩目じゃないかな・・。徐々に段々って言葉がある、急に激変するってそんなに世の中沢山あるわけじゃない、殆どが徐々に段々とだと思う。
最近、、地球と触れ合う機会があった・・・。笑 四国のモンサンミッシェルという場所に行ってみた(潮の満ち引きでできた浅瀬を歩いてちっこい小島まで渡っていけるという所)干潮調べるとちょうどいい昼下がりですこし早めに到着・・潮がひくのをしばらく待っていた。すると一つのグループが来て躊躇なく海へ、くるぶし下ぐらい海水につけて歩いて渡るのを眺めていた私(干潮前の出来事)干潮時間ごろみて全部砂地にならない様子を知った私が入った一応小島まで上陸・・・すると対岸眺めると友が干潮過ぎてみるみる満ちはじめる潮に気づき慌ててくるぶし上約20センチを歩いて渡りながら地球を感じた。ぼんやり海面の穏やかな波を眺めていた私だけど、一瞬にして潮目は変わるのだと感じた。海面は何も変わっていなかった、よーっく凝らしていたら変わった事に気づいたのかもしれない。変わるという事はいつでもどんなことでも気づかないぐらいのすこしづつすこしづつジョジョにジョジョにだ。一回ですぐチェンジできることっていうのは無いに等しい気がしてる。新しさや美しさや綺麗さをキープすることも変化に対応していくことだし、変化した後もキープし続けることにも手が抜けない。手が抜けないってことが生活、生きることなのかもしれない。手間をかける、大事にするってことが生活全体、身の回りに溢れてる。着ること、食べること、人との関わりにも・・。なんでも以心伝心するような気がする。