AKO’S Monologue

  • ゆっくり

    東京出張先で書いてるこのアコのひとりごと。環境を変えると以前はワクワクが多く刺激を求めていた。ようやく私も大人の仲間入りできてきたのか笑 場所を変え空間を変えてスイッチオフしてゆっくりと過ごし味わうことができるようになってきた。何かしなきゃ勿体無い!せっかくだから!って思いも芽吹きそうになるけど、特にやりたい事も見つからずぼんやりするって脳にいいらしいことを聞き、空を眺めたりしていて、かっこよくいうと非生産性の今を楽しむ=ゆっくりゆっくり贅沢な時間を過ごす。つい最近まで急ぎ速足で早食いの私が、何もしない事が悪い事のようでなんなら生きてる意味ないような解釈でいたけど、早いだけがイイ訳じゃないとつくづく感じている。以前のアパレル業界も先取り早く早くという時代もあった、今はマイペースで自身の体型も気分、気候にあったモノがその時のベストだと思っている。惑われない振り回されないって凄く凛とした大人らしい振る舞いで、流行も大人の余裕(遊び心)で自分らしく少し取り入れるのも大人のスタイルに感じる。先日筋トレで超ゆっくりゆーっくり動かす種目で僅かな回数で即筋肉がプルプル痙攣した笑。動いてる?止まってる?かの地味なわずかな微かな動き。後々大きく影響してくるんだなぁって感じた。地味ってその地点を味わう事全てを感じることなんだろうな〜。

  • T

    私はお洋服着るっておもしろい楽しいなって思ってもらえるキッカケになったらいいな~+加えるなら、自分を好きに大事にしてもらいたい。元々ネガティブでネクラで反骨精神だけでどうにかやっていた10,20代。今、学生や世代違う人がどんなことを思い過ごしてるのだろうか?ファッションの楽しさ着るおもしろさ知ってもらえたらいいなって思う。夏といえばTシャツ・・Tシャツ選びも、形、デザイン、色、サイズ、袖の長さ、首の開き、生地の薄さ厚さ、素材、涼しさざまざまな選び方がある。いろんな選び方と選ばれ方があるから接客の際も楽しい。同じように見え似ていてもまったく別物がいい!一期一会の巡り合いでしっくり似合うのも楽しく、好みだけど似合ってないと感じるような事もあったり~、本当は着たいけどちょっと照れたり恥ずかしさも見え隠れする心境もあったりする。憧れや理想を求めつつも今の生自分を受け入れるところもあったりする。白Tシャツとジーンズの王道スタイル。似合うってその人らしさとマッチすること、シンプルな着こなしも素敵に感じるのも 服×人の相性。片思いみたいに気になったお洋服を条件のみで諦めることはしないでいいと思う。骨格診断や色判断よりはまずは試着してみよう、骨格と肌以外の他パーツとの相性もとても重要だったりする。昔、美味しんぼって究極の料理対決を親子でする漫画があった、食材や調理方法など細かなこだわりと手間と工夫がそれぞれの回で紹介される。料理を一切しない 果物×器 というだけの究極の料理の回が確かあった・・インパクト大でよく覚えてる。Tシャツも「果物と器」みたいなものでシンプルに最大限引き立たせ合う究極のオシャレの様にも感じる 着る人×Tシャツ の相性と思う。洗練されるって無駄をそぎ落とすことであり、デザインあるもの、お洋服をどんどん着て沢山の経験を足していく頃もあれば段々と引いていく頃もあったりする。お料理といっしょで隠し味が必要だったりアクセント効かせるときもあって全て計算!シンプルはその加減で足し引き、洗練された様子って同じ感性同士しか響き合えない無言のコンタクト。シンプルな物ほどしっかり選んでほしい。

  • 大阪

    展示会で大阪にも以前より出かけることが増えた。関西弁やノリが正直ニガテだったけれど私のオバチャン世代になったからか・・段々へーきになってきた。笑 東京や福岡にはない大阪独特雰囲気だなーーっとつくづく思う。ちょうど新大阪駅では万博の関係で朝早い時間は外国人が多く空気や匂いが空港の国際ターミナルのような印象がした。電車に乗れば全身色んな柄でコーディネイトしているオバチャンもいらしてその方の感性でオシャレを楽しむ様子もいいねっ!!って思えたし、THE喫茶店というような老舗という肩肘張らない、庶民に馴染み優しく寄り添うような雰囲気のお店が多くどこに入ろうか迷うぐらいあった。こだわりのコーヒーや作り方も変わらない食べたいなぁーーって思わせる魅力的なサンドイッチやミックスジュースのメニューを眺めた。ファッションも喫茶店も自己流で、我が道をいく!マイペースなところがホントいいなぁって思えた。時代に流されないブレない感じが凄く良かった。そして、媚びない芯その勇気(本人は自分がイイならイイヤンっって)いうスタンスも、勇気と捉える小心者のわたしがいて、つい周囲を意識している自分や右往左往するのをちょっと恥ずかしく思った。自分がいいと思って提供している手を抜かない喫茶店のスタイルがステキだった。私もイイと思って仕入れているのは変わらない。だけど、頑固になるのとポリシーは違う。全身柄をオシャレ楽しんでることに共感してもそのコーディネイトは私自身しないし提供に取り入れない。ただアリだと思う!!ファッションって本人次第で自由でヨシ何なら興味ないのもヨシでいい、ただ目からの情報として薄っすら表層化するのも事実だったりする。自分をつくるってことの一つに服もある。自分自身が自己プロヂュースし続けるのが生活なのだと思う。どんなことも自己プロヂュースの意識があれば感情的な振る舞い言動も自制が効きそう。ワンクッション持てるかどうかワンクッションある人はいつも身の回りにエアバッグを装備できてるような生活を送れるんじゃないかと思う。

  • AU

    タイトルからだとスマホの話題でもするのかな・・って思われるかもしれないけれど、実際に会うということの大切さをつくづく感じた今朝。先日NHKのあさイチという番組で活動が取り上げられた「ソロ活」スタッフでほぼ毎日やり取りをしている、私は正直いるかいないかで様子見なところが多く申し訳ないぐらい。日常にlineあるけど会うのは久しぶりだった。「会う」事の大事さをしみじみ感じた。どうしても文面だと自分の先入観や固定された思考で受け取り感じてしまうから、文面だと少しずつズレてしまうものだ・・。冗談で言ったものがドーーーーんとシリアスになってしまったこともあり反省したときもあった。日頃会話している仲のグループでは普通のことでなんだ問題にもならないようなこともそうじゃなく小石のつまづくようなことになってしまうもこともある・・当たり前ってことは世の中にはほぼないということの実感⇒有り難い。相手を意を汲めるのはやっぱり会ってすべてから感じ取らなきゃねって、zoomやリモートでも直に合わなきゃだと気づき始めている人も多くなってきた。何でもそうじゃないかな~人にしても物にしても場所にしてもその空気(見えないもの)含めたすべてだ。雰囲気っていうのも・・気配っていうのも・・。昔、飲食店を経営する方が一流の俳優は気配を消すことができると言っていた。きっとプライベートをしっかり分けていらっしゃる方なのかもしれない。気配ってある程度コントロールできるものでもあるのだろう、ただ素敵さや美しさには気づいてしまうもの。ワザとらしくあざとく放つものではなくてほんのり漂う・・その微かなっていうのがその人らしいところになるのかもしれない。微かなっていう何かが通じ合えるから人は親しくも慣れたり共感もできたり歩み寄れたりするのかもしれない。

  • アナログ

    私はスマホ活用していないと思う。仲良しの友達のように探求心旺盛でドンドン深ーーく奥へ行動していけるタイプが羨ましい、興味あるからドンドン調べ進めていけるのだと思う。私の好奇心そそるツボは少ないけどあるにはある。。その時だけはひたすら探したり知ろうとしてある程度いくといつのまにか熱冷め平熱になっている。昨日展示会でいつもの担当じゃない方々と話す機会あった。いつもは挨拶程度・・オモシロイもので共通の趣味やお洋服のことで話は盛り上がり意外な一面を知る。会話はお互いの印象をガラッと変える瞬間でもある。イメージや印象だけでいる事はホントもったいない。言葉やコミュニケーションってイイも悪いも両面持ち合わせてる。だから、言葉を注意したり、綴ること、口に出す際に意識が必要。ある方が“ 「A.Iも言葉もなんでも・・道具が悪いのではなく使う人の知性が問われる、・・・それがもっと感じられるようになり、そして、使用者の知性、品性、倫理観であったり美意識であるはず・・・」というブログを目にした。私も同感だな・・、使う人の方が意識していることがそのまま現れるような気がしている。見た目よりも中が見えてくる時代のような気がしている。道具の使い方、物を大事にする、約束を守る、アナログだったころの大事だった要素が出てくる気がしている。お気に入りのポップな色のボールペンの芯をやっと手に入れ、入れ替える、外見そのままだけど中は新しい。そんな私でいたいいな・・笑

  • FU・・

    展示会行ってほとんどフィーリングでセレクトしている。感覚と計算の(バランス)も大事。感覚だけで暴走してもよくない、少し先を見て少し前を見ての計算も大事だったりするしちょっと振り返ることも大切。だから、今に集中できるし今を丁寧にできるようになる気がする。何でも生活全般にも身の回りに通じるものの様な気がしている。学生時代の私は先が見れなかった、あまりに自分がイヤすぎてお先マックラな時期もあったし、だからといって過去に振り返って後ろ向きでいるタイプでもなかった。前も後ろもしっかりよく見ないと今をどうしたいかが生まれないような気がする。未来をみて今を、過去をみて今を!!見方が変われば今はすぐ変わるというのが腑に落ちたところ。私は成長も進歩もゆっくりめのところトロイ、どんくさい)があったから、すぐに合わないやめるの選択はしなかった点はよかった。最初からおもしろい楽しいって思えることってほとんどない。其れよりもできないシックハックで失敗を恐れたり怖かったり、緊張したり、ドキドキしたりスムーズにできないが当たり前というのを忘れていると思う。できない自分自身が許せないのか恥ずかしいのかイヤなのか、失敗が怖いのかいろいろあって私は全部だった。最初から完璧にできる人は天才と思えば気がラクだ。天才ってそこら中にいるわけじゃないって思えば怯える必要もない。段々上達していく、その段々も一段が低い人もいれば一段が高い人もいる。私は瞬発力がない変わりにかひとつをコツコツコツコツ続けることはできた方だった。自分のないとある(長所も短所も)両方知れたら計算はしやすい。両方を知ることができたらとても気楽におれる。最近はどっちかの片方のタイプが多いかもしれない。。もう少し両方から見える事ができるようになったら暖かい眼差しも増えるような気がする。最近、新しいことにチャレンジしたり始めたりしている大人の方がいらっしゃる、ゼロからのスタートする勇気ってなんか素敵だなって思う。教えてもらい、助けてもらう、サポートしてもらう、人から頂いてばかりで世の中はできてる。私も循環社会のなかで何かパーツとしてできることはないだろうか・・なにもできないゼロからの経験して新たな自分を発掘してみようかなって気になってる。笑 わからないできない自分もあればあちこちのハラスメントはこんなに増えなかったと思う。

  • FU

    腑に落ちるって・・ストンといったイメージ、すんなり入るような一所懸命理解しようを超えたところ(アタマだけじゃない)ことを体験した。自分と向き合ったり内観するのに瞑想や方法などは沢山あるけど、結局 我(どこか作りこんだり、作り込まれたものが自分の意識となっているように勘違いしまったりする)それがあると自分を知りたいけど本当の自分とは出会えず難しくややこしくなってしまうと思う。自分の殻を破る=自分を見つめることは「えぐる」痛みがあるけど、それを確認するとってもラクになるもの。~こうでなくちゃっ、~でなければ、~あるべき、など自分で決めつけ枠や限界を作ってしまうとそれでがんじがらめになってしまう。お洋服やファッションは、~あるべき、~なければっていうのは全くないと思っていて、その人がどういたいか?!どうしたいか?!本人の意思がとっても大切だと思ってる。だから、着る本人の意思を尊重したいし価値観になってるものが薄っすら気配に漂ってくる。物が高価とかチープとか価格や金銭的なものじゃなくて、なぜそれを選んでいるのか・・・っていう本人の気持ちが大切だったりする。「着たい」「いい」「素敵」の感覚は自分自身をよく知ることであって、日頃から自分を観察しているところからスタートだとも思う。自分で似合う服がよくわからない・・と仰る方も思いはあるからそのリクエストを恥ずかしがらず伝えてみるといい。気候、気温も気分も変われば着たいものも変わってくるのは自然な。私の服選び好きとイイの直感だけでいつもバイイングしている。だから早い。笑

  • 環境

    いつ頃からか・・不器用だから人に頼れるようになってきた。。素直に相手の意見や考えを聞く耳をもつこともできるようになってきた。30代はどこか・・だれかわからないなにかと張り合い競い、欠点を隠して弱みはスキで、弱さは甘えのように捉えていたような所があった気がする。完璧な人はいないし、張り合うでもなく、優劣や競争だけが社会でも人間関係でもない気がしてる。環境で温もりに触れ、柔らかい感性や大目に見てくださる方がいるお陰で今の私が居れるように感じている。環境に知らず知らずとても影響をうけるもの。環境の大半を占めるのが人間関係じゃないかなって思う。何気なく使い発する言葉、日常の話すほんの些細な話題、口調やトーンにスピードも込み込みで環境になっているのだろうなぁって思う。私も大学のバスケ合宿が2週間続き、やっと休みで親友と遊べる時にどうしたの?なんか荒々しいよ?ってふと言われた言葉で我に返る思いをしたことがある。競争し肉体精神的ハードな合宿ですさんでいっていたのだろう。。その環境にどっぷりいるとそれが当たり前になって全く気付かないでいてしまう。ふと冷静にさせてくれた親友に感謝だった。それからはそこに染まりたくなかったし染まらないようにした。環境というのは選べるし、親しくさせてもらう人も選べるのがいいところで距離をとることも身を守ること自分次第。自由だから理想や自分がどうありたいかがとても大事になってくるんじゃないかなって思う。環境からイイところはドンドン吸収できるしいい影響も沢山空気感染できる。だから、環境が人を育てるというのだろう。そこにいる本人の意思次第でずいぶん様変わりする。

  • 下・・・

    いつからか美意識が表面的なもの陳腐なものになってきたように、美しさと洗練されるって私は最近表裏一体だと思う。輝く一流のデザイナーは美学がありセンスのイイ言葉を使い、より美しいものへの探求しつづけている。日々洗練されている、それはセンスがいいから洗練され続けるのか、洗練されるからセンスがより良くなるのかわからない。最初からある天性もあるかもしれないけど後付けもいっぱいあると思う。センスは終わりなくずっと磨き続けられると思っている。茶道や書道や剣道も「~道」というものはそういうモノだと思う。道は、コツコツ自分を磨き続ける事だから道と表現されるらしい。ごもっとも~~~!!これから、女性がただファッションでオシャレを楽しみながらセンスを磨き、洗練されるという事にもフォーカスあて上を目指したいなっ、いけたらいいなって思っている今日この頃。なぜ私がこう思うようになったかは、オシャレするってなんだろう?美しいってなんだろう?センスいいってなんだろう?洗練されてるってどういうことなんだろう?上品ってどこで感じるんだろう?って思考するとパーツじゃなくて全域のトータル上っ面だけの問題じゃないし服だけのことでもない。内面のものが多くをしめるんだなぁってつくづく感じる。センスのいい人は経験も豊富で言葉のチョイスもセンスが見事。センスよくいるのも近道はないなって思う。すべて経過なのだ、その経過も今の一つ一つの丁寧さの積み重ねなのだと感じている。だから、最近はセッカチ早食いの私が箸お皿を丁寧に持ち、倍の時間かけてよく噛んで食べている。笑

  • 下・・

    下準備といえば!料理だってそうだし種から育てた野菜、木が花を咲かせ実り収穫する果実も見えてない経過があっての最後の最後こと。経過があるその間育つ。タイムパフォーマンスをいつから言いはじめたのだろうっ?省くことで大切な何かを忘れてきたように思う。結果ばかり追い求め、近道、簡単、楽ちん、便利は今の日本語解釈と数十年前とでもずいぶん変わった。不自由さの便利とは今は内容が違う。めんどくさがりの私がこう書いてるのも妙だけど・・笑 めんどくさがりやでも手抜きはしない。めんどくさがりと不得意もちょっと違うように思う。日本語の言葉の水面下がごっちゃになっているのが目立たない問題の気がしてしょうがない。例えば「優しい」の捉え方も使い方も意味も多様になりすぎ、同じ意味ニュアンスで捉えられる人同士が自然とつながっていけるような今の社会になっている。語彙力の差がアメリカのデーターに所得の差にハッキリ出ているそうだ。語彙力は無くても言い回しや表現に気をつけるなり、言葉を慎むなり、発するを少し控える事で世の中はずいぶん過ごしやすくなるように思う。うかつな発言をしている人ほど、他人や周りのせいにしてすべてを台無しにしている元凶が自分の発する言葉に気づいてない人が多い。対照的にお互いに「ごめんなさい」「ありがとう」と心地よく過ごせている人だって沢山いることもある。ウソも信憑性判断できないA.I.がご立派な言葉を並べた文章を作っても、自分の思いや気持ちに寄り添ってくれる人には決して敵わないと思う。ファッションやオシャレというビジュアル環境にいるからこそ表面の安易な判断は危険だ。表面の下(見えない部分)人間同士のつながりが大事になっていくように思う。見た目だけじゃない深層まで美しいって決して終わりはない。美意識ってそういうものに使うんじゃないかなって。

  • 最近もまだ肌寒く感じるようなことがある4月末・・、この陽気びっくりしているのは人間だけではないはず、植物たちもだろう。無理に薄着する必要は全くなくこの時期に巷ではインフルエンザが流行っていて学級閉鎖しているそうで気をつけたいところ・・。初めて茶道に使う「湿めし灰」作り方を教わりながらお手伝いさせてもらった。手間の多いこと・・・・面倒くさがりの私には茶道は全て精進の元かもしれない・・、表に現れない下準備や裏方への感謝する思いのキッカケになる心が持てることばかり。お作法お道具何一つとっても意味があることしかない。無駄はない動き洗練されている。目に見える事は氷山の一角でその水面下がとても肝心&重要だなぁーと感じる。思いを汲む力がつきたいが気づく力のキッカケもこうした脇の脇のような影のような存在の湿めし灰(火の付きでお湯の湧きあがりに影響する、湿った灰を炭の周りに撒くことで火起こりをより引き起こすのが湿った灰)ただの水で湿らせる訳でもなく焙じ茶の熱湯をかけては天日干しの工程を何日も繰り返して仕上がるモノ作り。湿りすぎも出来わるくカビの元になったりするそうだ、乾きすぎも良くなく出来栄えは熟練したところの加減の判断。出来上がってしまえば良し悪しつけられてしまうものが今の人間社会。結果だけの評価、見える所だけの判断ばかり。見えるところがペラペラのハリボテ。価格や写真に騙されているのかな?って疑う力、疑問に思う不思議に思う力も必要だと思う。本質的な見方を学ばさせてもらっているのが茶道のような気がしている。今思えば気の遠くなるような手間ばかり、たった100年も前は蛇口からすぐ飲み水が出る事もなく、車がある電気がつくわけでもない。布巾ひとつも貴重で甘いものも贅沢な品。幸を思うって時代も変わればというところだ・・・。

  • 新緑

    葉をつけながらも咲きつづく花のあるマーブルな桜の木に、鮮やかなピンクに埋めつくされるツツジが咲き、柔らかい緑色の葉の山に爽やかな薫風と合う山ではもう藤が咲いている。フルーツミックスジュースみたいになっているこの季節。お店前を掃きながらいつもとチガウ私を感じている・・春にひとつ年が加算される私が・・。常緑樹のトネリコが黄色く散っている様子を掃除しながら今年はなんだか・・はかなげに感じている。気持ちいい季節で例年なら新緑に気を取られているところなのに、役目を終え次にゆずる黄色い葉に目が留まってしまう。巡ることを意識しはじめているこの頃の私、かわったなぁーーーっわたし自身がっそう思う。笑 ある意味、穏やかに物事をほんのすこしだけ眺められるようになってきたのかもしれない。今までだったら、掃除しながら次にこれをしてとあれはしておかなきゃねって次々に頭でつぶやきながらしていた・・。段取りといえばカッコいいかもしれないけど今をちょっと感じれるようになったかもしれない・・些細な・・小さなことを。森を見て木を見ず、木を見て森を見ず 正解はどっち?じゃなくただ偏らないようにいることをみることを心がけていての変化。少し広く 少し大きく 少し距離をとって 少し熱を下げて 少し他人目線 少し自分の気持ちから離れて 少し先をみて 少し顕微鏡のごとく極d極細分化して 少し批評家みないなところをやめる すぐ答えない 少し間をとる すこしすこしで変わりゆくものがいっぱい感じられるようになった。自分をアップデートの仕方って 少しの少しの意識なんだなあーーーって思えたら 自分を使っての実験がとても楽しくオモシロイ。自分が変わるって一番おもしろい遊びのような気がしてる。

  • カコ

    私はほとんど振り返らないようにしてる。お店の仕入れでいつも次のシーズンを先の季節を観ているからかもしれない、母の覆水盆に返らずと小さい頃言われていつも今と次回と育ったからかもしれない。セカセカを卒業したくてプライベートでスケジュール帳持たなくなって10年以上経っていて、様々な予定をいっぱい詰めなくなった。旅先も一つの予定いれるか入れないかぐらいでゆっくりベースを心がけている。カコと今を比べられないけど、ずいぶん私も変化しているように思う。先日5年前、私が考え構想したもの改めて目を通した際、当時の私にバッタリ出会った。自分でこんなことを考えていたんだぁーー、へーーって他人事のような不思議な感覚だった。一度ポシャッタことをもう一度トライするかチャレンジするか迷う・・年齢なのか小心なのかわからず、勇気も行動力も減ったことと鈍い私を知る。こういう時どうしてか頭に浮かぶフレーズは、宮崎監督の「紅の豚」の主人公の「飛ばない豚はただの豚だ」が渋い声で頭にコダマする。当時の思いや希望あったことすっかり忘れていた私、封印していたかのように。。よがりと未熟さと悔しくて泣くほど身に染みた事だけに戸惑う。時代も変わり私も変わった。カコをただ引っ張りだし繰り返すことはしたくない、もっと・もう少し・・なにかいい方法や案が発想できないかな??+にも-にも変わっている私がカコの私と今の私が競っている。同じことを繰り返すわけにはいかず再びチャレンジするってことは1回目のチャレンジする時より高い高い壁がある。失敗の恐れはないけどどうすればいいかな~~~?久々に頭をフルフル回転させている4月。春の気候や気温のように行ったり戻ったり一進一退の4月。笑

  • 進・・

    以前にも話題にだしてるけど、私は食アレルギーではないが食べれないものが多く偏食。母のお腹にいたときから私を知るおじさんに超超強引に口に入れた。先に妹が毒味のようにして数々質問して様子を伺ってから渋々渋々食べた。笑 私は味ともかく見た目で食べられないもあって想像つかない物は全く食べられない。細かく言えばキリがないほど。今回この口にした瞬間一歩の進化を感じた。チャレンジしたこと体験したこと我ながらとっても満足。よくできましたならぬ よく食べましたって心の中で思ったぐらい笑 お店で接客の際にお客様の柔軟でファッションを楽しんでる雰囲気や真剣に」選ばれてる様子がとても好き。苦手や必要ないもの、着ないものはは無理に取り入れなくていいと思ってるけど、着てみよう!!のカルーーークてソフトな感覚が凄くいいなーーって固定してないところ受け入れる余裕感。新緑の自然を感じる今の季節と感覚がリンクして新しさを求めて新鮮な感覚、新しい雰囲気のコーディネイトで居たくて来店される。そんな気持ちで服を着られてるのだなぁっ人の内を感じてる。近道はなくて羽毛の毛ひとつのような軽くて柔らかい変化が進歩なのかもしれない。わたしの進歩なんて笑えちゃうぐらいだけど家族中が驚いたぐらいの出来事だった。笑 私からすると赤ちゃんが寝返りしたぐらいの事だった。。。

  • コロナ発生からリセットされ変わったなぁと感じるのに、人と人のつながりの変化。つながりの内側。ただの物、SNS、インスタ、映像、文字、lineのスタンプから、生になっている。ある学者が「 情報はつながり 」表現されていた。情報のほとんどがゴミだ、人間がフィクションを好み真実はほんの僅かで痛みを伴う、A.I.が悪いだけでもなく、人間同士の信頼の醸成がより大事だと締め括り話されていた。(一部抜粋)人それぞれ感じ反応も別別。例えば、食べ物のリアクション美味しい美味しくないも様々で感性が伴う。お店でプレゼント選びにご一緒する際も、プレゼントのお相手が日頃どんな様子?どんな好み?アレコレ尋ねて少しでも喜ばれるよう想像する。プレゼントする側が思い描く想像力大切だったりする。全国にお店オンラインショップあるけど日常私の履くサイズはほぼない、だから探すのをやめた。私は無いのがきっかけでお店を始めている。最近お洋服迷い子を耳にする。そういう方はとても熱心でオンラインの骨格やカラー診断をしている・・私は診断したところでリアルの自分に似合ったりしっくりくる服が見つかるようになるはずがない。なぜなら、お洋服は一点一点違うものだから。似ているけど別物で少しずつ違う細部、そして本人の好みとフィーリングが入る。条件や理性で恋愛はできないのと似ているかな~。年頃でタイプや好みが変わったり、つい惹かれちゃうタイプみたいなもの・・いわゆるフェチ・クセみたいなもの。新しい気づきを発見するのには試着という情報収集がいるかもしれない。生身な冒険が大事だったりする。頭の理屈よりも生に触れてみる機会ってスッゴク大事なように思う。まずはそこからがイッポ

  • 主役

    「若づくり」と「若く見える」のコーディネイトは全く別物。前の方は着用している本人に似合ってなくて違和感がある感じ。若く見えるというのは自然体に感じるムリがなく本人に馴染んでる事だったりする。だから接客の際、その方のキャラクターや雰囲気が大事だったりする、持っているアイテムや本人の理想の雰囲気や好みはもっと尊重している、たまに似合うなぁーーがあればリクエストプッシュすることも稀にある。服装で一つでも浮いているアイテムがあるのは違和感を作るきっかけ・・・馴染みシックリする事がワードローブでは超大事だったりする。つい手に取るという事もとてもKEY。今の気分のお気に入りであったりすることもあるだろうし、合わせやすく着やすいのも大切。ファッション迷子の方は大半そういうアイテムが無かったりする、シックリ馴染んでないことも多いから何を着ても違和感にしかない。私自身の服選びもずいぶん変わり変遷した。年齢とともにって年齢を気にしてではなくて、私の思考の変化が大きく影響してるなぁって振り返って感じる。アイテムとして好きだけどちょっと恥ずかしくてもう着れない服もある。一生ものというフレーズはもう今は無くて、その当時ときめいた私がいたのは事実。失敗したとは思わない。ひとつの出会いでそれをバンバン着ていたこともあるし、どこかかっこつけていた時もあって数えるぐらいしか着てないものもある。。笑 40になる前ぐらいからかっこつけすぎずで居られるようになった。50になったらどんな服を着るのだろう、きっと心動くときめくモノを着ているのだろうなぁーーー自分のこだわりで。笑 「若く見える」は、その人らしさと服がマッチしているときで着ている人が嬉しそうなときなんだと思う。服は着る人のアイテム、主役は着る本人次第の気分が表れちゃうんだと思う。

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