AKO’S Monologue

  • ワクワク

    お気に入りって他人からわからない個人だけの思い・・わたしは日常で新旧のお洋服を着ています。クローゼットの中探査してそのときの気分で流行に関係なく引っ張り出して着ているし、サイズ感があったものを選んでいるのでシックリするのはあまり変わらない。身体との相性や気持ちやテンションとのズレが生じることはありますがその時はその時で処分したり家族にあげたりすることもあります。ときは着過ぎてダメージ感があって泣く泣く手放したものもあります。もう一度アレが欲しいと思ってももう手に入らない後の祭り。そういったお気に入りを紹介できるかが私のお役目の一つだと思う。昔の商店街のお肉屋さん果物屋さんお魚屋さんのような生活の一部携わるような、馴染みのお客様と日々過ごしていけたらいいなって思う。食べるものほど生死に関するものではないけど、日常生活では身近なものだからこそ、身近においてもらえるようなお店になれたらいいなって思っている。今年もあと3か月かぁって思うのが10月朝晩がひんやり肌寒くなってきたから余計にそう思うのかもしれない。そして、来年の予定がチョクチョク入りつつあるからかもしれない。あんなにも灼熱だった夏がまるで幻のような気がしてしまう笑 衣替えしてお気に入りの冬のアイテムたちと再会もっと寒くなれば大好きなニットたちの出番。ワクワク

  • イベントのキッカケは、お洋服好きな方は処分するには忍びなく・・傷んでないし・・誰か着てくれる人がいたら譲りたいなぁ、身につけるものを大切にする思いから始めました。慎重に選ぶこと大切にすること着ることを考えてほしくて・・。安価で好きなものお気に入りが手にできたら幸せかもしれません。ただ安価なものの背景を一旦想像してほしいです。どうしてそんなに安価になっているのか?何かを作るには必ず人が関わっていることを!スーパーやお店に並んでいるときには商品になっているからただの物としか見れないけれど。そのすぐ前には誰かの手で陳列され沢山の人の手から手に渡り作られたいることをちょっとだけ意識したいなって思います。先日妹の友達の農家さんが今年もお米を家に届けてくれました。毎年持ってきてくださるのですが私は初めて挨拶しました。一俵を運ぶのも慣れた様子の彼女と陽焼けした肌がとても印象的でした。毎日稲が実るまで育てお世話した様子の日焼けを見たらほんと頭が下がる思いでした。何も作ることができない軟弱な私をひしひしと感じました。だから対価にお金が存在すると忘れちゃいけいないんじゃないかなって。物価高と言ってるけどその背景には多くの方のお陰とお世話になって支えられてることを感じてみてはどうでしょうか??価格だけに囚われない選択。プレゼントだって送る相手への思いが見える形になっているだけのもの。着ているお洋服だって靴だってアクセサリーだってその本人の思考が形になって表れているだけ。正直新しい旧いなんて全く関係ないと私は思っていて本人の気持ちが大事なんじゃないかなって。

  • コレクションチェックしていたらファッションに関するユーチューブをAIがピックアップするのでどんな感じかなぁっと初めてのぞいてみた。YouTubeの分析の仕方はまるで学校の授業のような説明でおもしろく見た笑 流行と傾向、カラーなど情報として見たけど、辛口コメントなら肝心なことが抜けてるんじゃないかと思った。いくら流行と傾向などのトレンドを頭に入れてもどの情報が自分にマッチするかはわからない。旬だからいいと似合うは全く別物~っとツッコミたい。オシャレになりたいって気持ちはすごーーーーくわかる。だけどオシャレって頭でするものじゃなく感覚で、着る人を活かすサブアイテム。情報だけではセンスアップにはならないような・・。服を着て感じるしかない。本人がイイってしっくりする感覚がとても大切。たくさん食べているから食通になれるのと同じ。味覚もファッションも一緒、感覚のものだから。見えないセンスを可視化する環境で生活している私たち 人×服(靴、鞄、アクセサリー)の存在はオンリーワン。いくらトレンドの服を着ても本人がステキじゃなければそれは残念。大人がおしゃれをするのは好きと似合うのギャップを受入れ、少し味変するような新鮮なものにチャレンジして取り入れてマイナーチェンジしていける事がKEY、ムリする必要はまったくない。本人の気分次第&お好み次第でいい。素敵にみえてるアイテムは年月経っても変わらないものもある。似合うものを着るステキにみえるキラキラしてるって周りになにか影響があると思う。部屋に花が一凛あるだけで明るくなるのと同じかな~~~~花があるって心地よくない?

  • SUMIZUMI

    どう生きるか??ジブリ作品のタイトルのようなことを最近とても意識するというか考えるようになってる。どういたいか?どういるか・・私が私でどう過ごすかと・・。具体的にどんな人柄のどんな人間の私でいるかいたいか・・生活全般にセンサーや人工知能が充満しているなかで主体性もって人間として生きるってなかなか大変になるかもしれない笑 振り回されない為にも今のうちに・・笑 人工知能が感情に寄り添えるようになって、親しいのは人工知能○○ちゃんになるかもしれない。信号機のない横断歩道に人に気づけば止まることができる。運転手がルールで止まったとしてもなんとなくそれ以上の人柄を感じとってしまうのが心理じゃないかな。そんなシーンが通勤途中あるのに逆になればスーーっと素通りした後気づくこのムラさが大人げない私。交通マナーも社会のあらゆるシーンも今まだ全てが私のセンサー次第。私の日常の言動行動の積み重ねで人柄になり、終焉で生き方になっていると思う。会話でも自分の内面をよぉーーく観察し知っている人ほど、その人らしい魅力が際立って輝いてるような気がする。自分の内を良し悪しジャッジせず比べず知る事はとても大切でコミュニケーションには特に要と思う。良い悪いじゃなく正解不正解でもなく独りよがりでもなくありのままの自分を隅々知っている人ほどコミュニケーションが上手く人間関係の距離感をとることができるセンサーのような気づき感覚を持っていてテクニックじゃない。そして、ありのままを受容してる人は自分以外に攻撃しない、平和主義・・・つづく

  • RYUSUI

    あこのひとりごと・・モノローグを書いてみてはイマイチぱっとしないというかシャンとしないので非公開のまま溜まっていた。最近更新されてないね?っておっしゃってくださる方もいてとても有難かった。何か特にあったわけではないけど、日常でちょいちょい感銘うけ感化されているようで私のあちこちの錆ついたねじが緩んでいる。いい意味でのゆるみ。多分このゆるみは超久しぶりのような気がする。強張った体やしばらく使わないでいた筋肉を伸ばし動かすアップみたいなもの。だから今も文字打つ手がスムーズに進まない。私のモノローグはサクサクっと進んでいた。ここ最近は進んでは戻りの行ったり来たりで表現できないままでいる。今もひき続きわたしをざわざわさせていて整理つかないままにさせている頭の思春期みたいな感じだろうか・・笑笑 些細なちょっとした出来事、1フレーズのコトバをきっかけに刺激がやってくる。刺激は私を内観させるキッカケをくれる。ふり返らせ改めさせ初心にもどらせたりする。いつのまにか止まっていたんだと知る。電池切れしていたわけじゃないけど、確実に電池が劣化していたのだろう。掛け時計の電池がいつからか遅れて動いていたりいつの間に止まっていたようなそんな感じだろうか。。。若い人の話を聞くこと、紀元前の人のコトバに触れる、明治時代近代の日本に触れると止まっていた私が動き出した。。勝手な思い込み・育った時代と環境の癖、思考のようなものから抜け出せてきたような気がする。私の一方的な思い込みと捉え方に固執して固く固く固くガンジガラメになっていた。もっとカルーーーーク 軽やかにいたい、濁る澱むよりは澄んでいたい。grosierという私が作った造語は柔軟にいる変化に順応適応しながら成長したい という思いがあって作ったっ言葉。水は流れているからイイと誰かが言っていた・・・流される と 流れている って全く別物。流されていたらラクだろう・・こんなはずじゃなかった・・いったいどこに辿り着くかわからない。流れているって自らの意思ある事、いつゴールに辿り着くかわからない。流れているってアクシデントもハプニングもラッキーもハッピーもある途中を満喫充実させていることだと思う。ゴールよりも結果より成果よりも沢山のことがある途中がもっとも味わい深く変化させるときなんだと思う。服を迷いながら選ぶってときも素敵なこと、その最中も楽しくおもしろい。。

  • 暮らし

    いろんなことにこの暑さはちょっとしんどい・・。そうは言ってもいろいろ思考癖があったりするのが人間。ラテン系の人が陽気でいられるのは考えても仕方ないから考えない、そういいながらネガティブ思考どっぷりだったときがある笑 せっかく思い耽るなら明るい想像やちょっと快適にちょっとハッピーになるほうにいるようにしてる。良い悪いの判断やジャッジってそもそもなくて錯覚かもしれない。最近、都心のゲリラ豪雨頻繁なニュースも大気の流れで急激に雨雲積乱雲発達するから起こるらしい。暑くなりすぎた地上冷やすのに大量の雨が降る。地球に意識があって考えてみたら、火傷級の暑さの場所を冷まそうと応急処置するはず・・なんて。逆に九州全域でほとんど雨降らず雨降ってほしいと願うところ。同じ雨も人間都合で良くも悪くもなるのだから、自然の恵みの中で生かされている私たち人間。目先のことだけにとらわれすぎずもっと暑さでおおらかになれたらいいソフトラテン系っていいかもしれない。笑 カリカリするよりはゆるーく トゲトゲするよりはふんわり がいいような気がする。本能と意思、意思と意志、感情と意思、文字にするとトンチみたいなことだけどそれぞれ違う気がしてる。うけうりで 悲観は感情、楽観は意思だと耳にした。生活というコトバより「暮らし」ということで捉えるようにしている毎日。ちょっと余裕とちょっとのんびりちょっと豊かなちょっとマイペースな気がするのは私だけ?暮らし方って自分の意思が現れるような気がしてる

  • スマート

    お店の様子がいつもと違うと・・・おもしろい。建物の外壁工事が行われるのに昨日今日とお店前にドドーンと大型トラックありで何事?!って感じ。この猛暑の外で足場を組む作業、エアコン効く室内のほほほほほんといてほんと頭が下がる。闊達な指示の声や応答の返事、足場の金属音カンカンカンと聞こえる日頃と違っていい。毎年このお盆過ぎは蝉しぐれのみで、帰省のお客様で賑わってからのこの時期ちょっと寂しく閑散、大体なにをするにしてもいつも一人で気楽とも寂しいとも思ったことないけど、人の気配があるのはいいものだなあと思った。なにか出来事、刺激があるって何かに気づける。手際よく進行するに要領がいるだろうしヒョイと軽く持ち運びされているにもコツがいるはずでスマートでカッコイイなって思う。大人になるって仕事にしても人との付き合いにしても生活全般にしても多様にできる事が増えていくことなのだろうと、ふと思った。一つを探求しながら深く知り極めていくことも素敵だ。さまざまな様子の変化に合わせ柔軟に変われることは大人要素のひとつなのかもしれない。お盆過ぎ移りゆく季節・・お洋服も時の流行に合わせ、季節や気候に合わせ、体形に合わせ、気分に合わせ、キャラクターに合わせジョジョに変化してるのが楽しい。接客の際中、着られる方のキャラクター!! 好きなテイスト、持ち物、ヘアースタイル、化粧、肌色も雰囲気だから似合う!ステキ!がある。大人が着るから醸し出す洒落っ気とても楽しい。だってその着る方が主役で彩りをくわえる脇役のアイテム。何を着ても似合わない楽しいと思えないってことは絶対ないただ見つかってないだけと思う。そして、自分が自分にきづいてない、気づけてないだけ。。

  • ZOOM

    グッタリ疲労・・というのが脳が刺激マックスでパンパン・・・zoomって有難い。場所を移さなくても受講できるセミナー。楽しみにしていた分聞き逃さないように集中するも途中で息ギレ、糖分ギレ起こすほど4時間強のブッ通しだった。集中力の無さを痛感。この暑さ体力疲労は毎日だけど、未知なる内容で頭フルフルで脳疲労は半端なかった。笑 頭柔らかい人はスーーーーーーっと浸透するように吸収されるのだろうなぁって思う。フィルターもなく抵抗もなくサクサクと入ってくる情報を処理するのだろう。そして、身につけ知恵となるのだろう。。学ぶ楽しさを感じるようになったのは大人になってからだ。。。笑 興味のある方へ惹かれる方へ進めることができるようになってからのこと嫌いな教科ができるの実は先生が嫌いだったり退屈な授業が原因だったり笑 元々性に合わないのもあるある。仲良くしてる友人も常に好奇心をアップデートしているから話題もつきずアップグレードしてるのが楽しくおもしろい。何でもいいから何か吸収していると動きになり変化になる。なんでも毎日のちょっとした行為。今の今の今を感じる。つくづく100年前は勉強はゴク一部の限られた人しかできない時代もあった、場所も時間も制約があった、そして、絶対にお会いすることもできないような方のリアルな考えや機会があるありがたい時代。自分で発掘していく好奇心のツボもあれば、周りの友人との会話きっかけで知ることもあったりする。楽しくおもしろく過ごすってライトな心やニュートラルに居るときにふわりとやってくるのかもしれない。ガチガチよりふわりとした包み込むような柔軟な女性が素敵と思う。そうなりたい。。

  • 足袋・・・

    和装にはコツと技が潜むそれは、真似て直ぐできるようになるものでは全くない。和装に限らず「道」とつくものは全てに言えることじゃないかなぁっと感じた。恥ずかしながらお茶を稽古してもらって早10年ぐらい経っているけど上達した気配は一向にない。お茶と私なりに付き合わせていただけているのも師匠と社中に環境に感謝だ。購入の際何かされているの?と尋ねられ お茶を習っていますと時間だけ経っているような私が言ってしまった冷汗 お恥ずかしいかぎりで恥じらいは自分を知るところだなーーって思った。奥深いものに触れると浅はかな自分を知る。奥深いもの=勉強ではないこと。着付けに茶道に奥が深くて楽しい、コツとテクニックも流れあって意味あるものばかり理にかなっている。1歩進み2歩下がるようなタイプの私はなかなか積み重ならないけど時間をかけてできることが向いているのかもしれない・・そういえば、なんでも時間がかかるし躓きコケルタイプだった。笑 なんでもかんでもすぐできる器用の方じゃ決してない、何度もこけて自転車と同じで乗れるコツをつかめば・・・ってところ。焦らずにマイペースにいこう何でも。知らない誰かと競うこと勝ち負けじゃない自分なりしっくりくるタイミングでコツがつかめるはず。。。自分の美学に沿っていこう。美学ってその人の行動の種なんじゃないかなぁって思う。夏休みやりたくないできないほどの宿題に多くの課題のある学生、学生なんて2度とできないと思うのは私だけ?だろうか? 勝ち負けにこだわるよりオタク級の趣味がある子はきっと道ができ花が咲くと思う。  

  • 足袋・・

    お店の扉を開けるなり「あなたに合うサイズの足袋ないよ」と言われた。全国放映され無くて当然でしょうと相槌。すると「足袋の選び方と買えるところを教えてあげるからよかったらあがって」と優しく仰って下さった。お言葉に甘えて居座り色んなお話を聞いた。江戸の火消しの旦那さんの為に火粉が足首に入らないように火傷しないように工夫していった女将さんの思いが原型で始まりだと・・(間違っていたらごめんなさい)単価・効率・売上げとかそうなってる時代だからなぁーー生きてくにゃ稼ぎがないとやっていけないでしょ 事実~コロナで全部停まって廃業やめちまったりあったと うちもどうにかこうにかやってこれたのも不思議なもんでね~みたいな噺家さん調でのお話を聞いていた。足袋はハーフサイズ刻みで4種類の型があったそうで、私も靴を扱うからわかるわかるって凄い数量の在庫になる。そして人それぞれを痛感させられるアイテムだ。足も体調と同じで日によってむくみ加減も変わるし馴染む靴が突然靴擦れになったりと思い当たる。たまたま!私の足が男性サイズだからたまたま!細型がポツンと量残っていた・これぞシンデレラ!笑 今までの人生でナイナイばかりだったのにこの度(足袋)は珍×レアが功を奏して超有難かった。しっくり凜とする履き心地の足袋は今まで経験したことないものだったし、見た目にとても上品で美しかった。男性みたいに見える足を格上げしてくれる足袋だった。和装は着方は勿論のことだけれどもサイズが極みだ!!大きすぎても小さすぎてもいけない。超絶妙な加減。そんな些細な加減と些細な工夫の施せる知恵ある日本人だったことを誇りに思った。細やかさというのは一人一人それぞれに合わせられるという優しさと思う。そして、その些細なものから感じ取れるのが気品やオーラや目に見えないものだと思う。目に見えないけど感じられる感じ取れるってそういうことってとっても楽しい。感じ取れる者同士のテレパシーみたいなものだと思う。

  • 足袋

    ここ最近 暑さのせいか・・元々だと思うけどいっこうにまとまらないので・・・このモノローグも更新できていないまま。まじめさ努力などが当然とつい思ってしまう私は仕方ない。。まじめさと努力って加減を間違えてしまうとよくないと思う。熱心なこととまじめさ、集中することと努力って似てるけど違うもの。はき違えないようにしなきゃなと思う。水やりを毎日して植物の様子観るようになって芽が出れば枯れ散る葉を見ながら新陳代謝の移り替わりを感じる。時とともに無くなっている物、事、技、文化を感じる。東京四ツ谷の足袋職人さんのことをTVで知り8月いっぱいで閉店告知されていて出張中チャンスと訪れた。馴染みの方がいらっしゃるだけで江戸っ子職人さんで笑 聞き取りにくかったこともチョクチョクあったけどゆっくりお話することができた。剣術と剣道のちがい。柔術と柔道の違い「術と道」の違いをとてもシンプルに教えてくださった。術というのは勝ち負けに特化したもので道というのは相手に敬意をもって接し調和の和をもつことだと私なりの理解。足袋というのは道の方々と接するからだと思う。道というのは和を以て貴しとなす。決して勝負ではないと。。。茶道を習い切磋琢磨、精進する自分と向き合うこと。お師匠より教わること。決して勝ち負けはない。見渡すと周囲がすべて勝ち負けになってしまっていてハッとさせられる。もう足に合わせて型紙を作れる職人も日本0人でいないと仰っていた、その型紙を起こす道具もずいぶん前から無くなっていたそうだ。。道という日本人の芯みたいなものが無くなっているのと同時に職人もいなくなる。

  • なごみ

    ふと教えて頂いたことで広がり深まっていく好奇心・・とっかかりは カルーーい。食には食わず嫌いだけど・・推薦されたことはできるだけ感覚でアクションしている。お茶の先生と芭蕉布の話を以前したこと覚えててくださり、よかったらと渡された小雑誌「なごみ」淡交社 お茶から広がるお菓子や食、書、古典題材からの日本の古きをしることができる。めっちゃハマってまーすとlineしたところ・・あなたのジャンル外と思ってた・・お茶では師匠と弟子、お店ではお客様、女性として付合いも長いのにどんな印象だったんだろう? いろんな面があるのが人間と思う。好奇心向くもの趣味も興味もハマれるものや何か好きがある人って魅力あってイキイキしている気がする。「わかる=理解」というのも、分けるから発生してると聞いたことがある。分けてもらったもので知り分かる=共感 というシンプルな構図。今さらながら日本語・・奥深くて繊細で可憐で面白い。ニュアンス感じるのに難しく表現の大さとビミョーな違いと私の脳力というか理解できてない未知ばかりで恥ずかしくたじろぐこと増えている。表層ファッション目だけの情報(スマホ)だけじゃない、リアルがもっと大切でもっと体験が浮き彫りになると思う。言葉選び使い方からでる人柄、口調と振る舞いから出て感じるもの 丁寧に一語でシンプルに表現できる方ほど器量の大きさを感じる。思ったこと感情を混ぜ直ぐ口にする単純さと、沢山から厳選され無駄を排除されたシンプルって全然全然違う。微妙なものをどれだけ気づき感じれるかで楽しめる幅も面白さもどんどん変化すると思う。洗練という日本語は素晴らしいとつくづく思う。

  • 手抜きorべんり って紙一重・・見え方が違うだけのような気がする。そうめんを食べながらフト・・衣替えならぬ器も季節で変っていたことを思い出した。食器棚の手前に夏のガラス食器を奥に鍋の取り皿などに移動していた多分小学低学年ぐらいまでしていたっけ??と母と懐かしく会話した。母の実家では、家が夏の装い襖をとり簾に風鈴、おじいちゃんお手製の網戸、涼生活になっていた。夕方祖父が打ち水をしていたこと 夏の風物詩のようなシーンが思い出される。今朝も先生とご一緒に児玉公園の児玉源太郎の命日(藤園忌)因んでのお茶会へ。藤色、藤の花の香合、7月24日が命日で数珠草と黒ほうずきが経筒に活けてあり、思いと祈りが表されていた仏と供養につながる道具組だった。手間をおしまず、手入れってコトバを感じる。ナス、きゅうり、かぼちゃだって勝手に育ち実ったものではないし牛乳だってお米だってパンだってただの商品(もの)と見るか・・最近、私は自分では作れない・・自分ではできない!代わりに人の手と労力で作ったものを感じる。物価高騰とインフレが日本を覆っているけど、そもそも自分で作れば??って言われたら、何一つ作ることができない事を思い知らされる。誰かのお陰で作られたものを頂くと思えばすべて有難い。物をどう見るか?事をどう見るか?梅雨があるから水不足に悩まずお風呂も毎日浸かれ汗を流せる。太陽のおかげで洗濯物もカラっと乾き気持ちよく衣類もタオルも使える。シミや日焼けよりもある程度の日光浴ができるから心身共に健康でいられる。植物があるから酸素が吸える・・全て見えないお陰様で生かされてることで、今あることを思えたら自分都合の自己解釈だけでのコトバを発する幼稚さを改めたい。何も言わないものが偉大だ。。

  • 語彙

    願いを口にしたらいいというのでブログにして表現している。言葉にしたらいろんなことが実現したことは体験している。まず自分が素直になってみる。自分都合はやめなきゃ周囲の助け協力者は絶対現れない。綺麗(美しい)という単純な見せかけのみでは決して通用しない。昔の人は きれいごと って皮肉っていたそう言えば〜。。トータルの人物像 ふるまい態度、モノを扱う心、言葉遣い(相手への思いやり)気遣いがますます重要になっていく。表面を作ればどうにかなっていた時代は終わった気がする。映えて見せていた時も一瞬。。見透かされてるっ私をちょくちょく感じるから憧れや理想や夢が持てたりする。恥じらいって日本から消えてる言葉になった。消える日本語は同等の消え失った心を現す。日本語の衰退が人の本質の衰退を倍増させて、社会の衰退に加速させていると思う。素敵と思う方は語彙の使い方も表現センスも素晴らしいから憧れる。社交で語彙をキチンと使いたい、そして日本語の勉強をしたいと思っているこの頃。

  • KIREI

    美しい が好きというただそれだけ・・。その奥に憧れがあってその深層に 私がそうではない という認識があってしっかり底に根をはって40年以上になるからと思う。私は自信があるのでは決してない。ただちょっと意思表示はしてることと、線引きが点線もあればくっきりした太字であって、その線もないようなところも多いという事。好きはハッキリしていることと同様に、お洋服の似合う似合わないがハッキリしているだけのこと。笑 オシャレを楽しむ行為も千差万別で老若男女問わず人それぞれの見えない深層の something を良くしたいを物質的に表したファッションを楽しんでるのだと思う。綺麗というのは世界共通、美しいというのも世界共通。そして、オシャレ心というのも世界共通。芸術すべて世界共通でステキだなーーっていうのはいつもどこでも以心伝心する。だから、わたしは綺麗になりたいし!キレイでいたいなと・・願いつつちょこちょこっといろんなことをマイペースにやっている。人と比べるのではなく自己更新でわたしのテーマ「美しい」ことなのだと実感する。美しいって感覚も人それぞれで正しいも不正解もないこと。本人基準で感じられるのがいい点で本人の基準値が大切と思う。最近、いろんな方と接していながらキャラクターだと伝えることがある。キャラクターが年々確立されてくるからしっくりくるものを着たらイイっ!!って感じるはず。中途半端な妥協はやめよう・・妥協点も人それぞれ。。。ただ私としてはその方に似合うGOODやBESTをご紹介したいし、その方のお好みに沿うGOOD&BESTの服でもっとステキな人が増えたらいいなと思うだけ。。 

  • 日本語

    もともとコミュニケーションが下手な私だった・・そして、今また日本語の壁にぶち当たっている 笑 表現力の乏しさとシンプルなわかりやすい伝え方、そして、きちんとした日本語の意味と解釈ができていないと感じている。語彙力の足りなさを・・・。海外旅行中はこんにちは。ありがとう。ごめんなさい。さよなら。でどうにか過ごせていたけど・・笑、日本ではそうはいかない。笑 難しいことをいう事があるわけではないけど、スマートな話し方がある。センスのいい言葉を使う人に惚れ惚れしてしまうし、憧れてしまうし、その人の心の内と思考の内が見えてしまう。オシャレ ≠ センスいい ≠ 流行りを着る って思っている。今までファッション業界はトレンドと流行を追っていたけれどそろそろそういう物ではなくなってきていると思う。今まで着てきた経験&買ってきた経験値&気分&好み&シーン 人それぞれの思考の内が一部表面化しているのが服だと思う。なにかあって今その服を選んでいるのだから・・。見えていなかったものが見えてきているような気がする。隠していたものも現れているのも事実。人と人が出会い安易に日本語を使って話しているけど多岐にわたって見え始めている。行動一つにしても・・しぐさひとつにしても・・。昨日お客さんにふぅううの溜息ひとつもハラスメントになると聞いた。。溜息だっていろんな溜息もあるだろうに~ニガ笑  きちんとした日本語を使用してズレのない会話ができるようになりたいなと!!これから身に着けておくべき必要なものかもしれない。

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