AKO’S Monologue

  • 凍るような寒波のさなかに新作春物が続々と届く・・いつ頃着ることになるのだろう?って思うほど薄物も多い。確実に季節は巡るけど背伸びしてムリしておしゃれする年頃は若い世代に譲るとして・・お客さまと会話でどうしても暖かいニットお薦めしているとヘビーローテーションで毛玉できたり、ちょっと着古した感でてしまうといわれる。こういう時期は暖を取れるものがいい。着古す言い方変えれば、愛用品でマイワードローブ&テッパン定番を確立しているということ。私も手離せないお気に入りニット~「コレコレやっぱりコレあったかい」って物がある。お店にいるとき躊躇なく着ていると言えば嘘になってしまう。お供歴ずいぶん長いものを私は着てる。新しいものの良さもあっていい、長年の愛着あるものもあっていい。古い新しいで判断するのではなくて新しい=いいもの=オシャレでもないと思う。着る本人の気持ちが新鮮になるなら~不動の安心感あるなら~べんりでこれがなきゃ困るなら~わたしはお洋服に旬はあまり無いと思う。クローゼットの中で眠ってる服も再確認すればリバイバルするることだってある。久しぶり着てみようかなってことがあっていい。大人になってしっかり吟味して選んでいたらそんなにはやりすたりは関係ない。逆にあれがもう一度欲しいと探していたりするぐらいのアイテムだってある。お洋服も一期一会だったりする。新しい出会いも楽しく何かが変化するキッカケになったりするし、しっくり馴染みの服なら新しい色で取り入れるのもいい。新しい季節がやってくるまた何か新しい出会いと気分になれそう。ウキウキする。

  • KEHAI

    雪舞う数日間から今朝お店の掃除しながら冷たい空気に春の気配があった。植物が喜びそうな。。。グレイ色の空気から黄緑色が交わりはじめてるといったらいいのかなぁ・・。この春のお洋服もパステルカラービビッドいろんな色がある中で、NEWは水色。特に久しぶり!デニム祭り コレクションもさまざまなデニムがあったので春はじめから注目してほしい。ボトムフェチの私自身デニムを履くこと引退してるけど 「履いてみようかなっ」と思えるような様々なシルエットがあってココロオドル。洋服歴感じさせるようなデニム、洒落っ気たっぷで懐かしいのか新鮮なのかのハザマの履き方のデニム、スタイル抜群、足長美脚デニムまであってそれぞれ楽しい。ファッションって楽しい&気分いい&ご機嫌が心が弾むが大大前提。興味のない人もいてもっとほかに惹かれる対象があるのだと思う・・。自分に関心を寄せる、自分の好き、惹かれる、憧れる、遠慮なく楽しむのがステキの要素。書道されているお客様と話ながらファッションと似たようなところがあっておもしろいなぁ・・。字体のバランス、はね、はらい角度、墨の濃淡、かすれ、半紙の余白、落款の位置、全体のバランス奥がとても深い。シンプルなものだから細部が際立つ。すべてセンス心に響いたり感動したりする事は、ぜーんぶすべて同じなんだと思う。仕上がった作品制作途中がとてもドラマチックだったからより素晴らしさが輪をかけて増していく。惹かれる、魅了されるってきっとそういう気配含めてなのだろうなぁ、醸し出すからつい惹かれちゃうのだろう。お洋服は素材仕立て縫製・・地味でもオーラを放つものは沢山あって気配を感じよう。。変哲もない服が着る方とコラボレーションするからグッとステキさ増す。相乗効果が好きだから洋服屋さんをしてるのかだと思う。

  • Color

    会えば話の途切れない友人と会話。彼女の世界観はいつも私の刺激になる。彼女らしさが会話の隅々まであって彼女らしいなと学ばされる。個性的っていうのは、元来みんな個性ある存在でアルのが当然、十人十色のはず。十人十色、人それぞれ・・を受け止めて協調するから社会になるのだろうなぁーーーって感じた。人のことをアレコレ言う前にまず自分の色がどんな色なのかを知ること受け止めること知っていくことが必要だなって感じた。自分に色がないと生きにくい。色がないということはないはず・・自分にも必ず濃淡あっても色はあるはず一色では表現できない魅力であってもいいし一色じゃなきゃいけないわけでもない。私がどんな色になりたいカナってことも大切でどんな色に憧れてるかも大事。今まで外見だけ色付けしてどうにか誤魔化せたり作り加工できたように思う。リアルな社会は内側から放つ色がなきゃとメッキみたいに剝がれてしまう。内側が自分を色付け色染めして色を薄めたり調整も自分次第、周りからいつの間にか染まっていたりする人間関係や環境ってすごく慎重に大切にしなきゃなって改めて思う。私はカメレオンみたいなところあるから染まりやすい・・ニガ笑 いい意味では素直、悪い意味では無知で偏った一方的な視方しかできなかったり頭でっかちであったり、臨機応変・柔軟性がなかったりしてるところもある。そんな自分を直し調整する。だから、彼女のような存在は有難かったりする。コピーすることはできないしクローンにもならないけど、彼女のいいところは見習い染まりたい。染め合う関係ってどっちがいいとか悪いもないし、薄くても濃くても絵になるようにムラがあってもいいし、あえて染まらない純粋なホワイトもあっていい。

  • ライト

    ライトってカタカナで書くと・・想像しにくい light / right 英語が話せる訳でも得意な訳ではないけれど・・これからの時を表す言葉だなーーって思った。今まで 正:不正 ってこと正しいか正しくないかってことが多かった。その判断の基準は育った環境のモラルや周りや身近な人の考えの影響だったりした。その根本から揺らぐ言ことが多い。正しい正しくないって判断することが難しい。社会人なりたてころを基準にして私が意見や考えを言ったところで今は令和で環境も教育も違い当然と思う事の基準も違うのだから。。。自分の正しいと思う思い込み(自分の考え)がそもそも不正解というシーンがあることを頭に入れておかなきゃな・・って思う。自分をときに振り返り、疑う事(疑念)を持ってなきゃなーーって思う。自分の意見や考えを述べるとき、伝えるとき、言葉をしっかり吟味選ぶことを注意しようと。。つい癖、つい!ついつい!っことでひびが入ったりしてしまうことが起こってしまうから。ライトに!かるく!っていうのもいい捉え方も真逆の捉え方もある。身軽さってアクティブな印象だけど、軽率っていうと考えない無責任な印象に・・。心軽く・・だと明るく清々しさ感じる。ライトに~!!重くならず明るくいたい。重たく暗いこと多いけど、それも受けとめ方を変えていけたらな・・って思う日々。野菜高騰 お米高騰と燃料費高騰 高い安い価格の価値基準で物事をみたり感じたりしてしまう癖が根強い私。感謝できるように成りたい。はたらくって 傍がラクになるから働くらしい。。人が動くことと書いて働く。字をジーーーーーーーって眺めてみるといろいろ教えがたくさんある。漢字を読めない私がいうのもなんだけど・・・笑 ライトみたいに明るくいたい。笑

  • 都会・・

    外から刺激で楽しもうとするとキリがない。田舎暮らしはスマホはあまり必要ない、私の場合ちょっと俯瞰するとそれは情報という名のくくりにしたような雰囲気で半分ぐらい宣伝広告のようだし、都会では画面の大半がゲームしている人が多くてビックリした。その代わりリアルな本を読む人を見かけるようになった気もする。スマホ駆使できない無知な私には時間浪費の対象であまりにも危険・・笑 都会に憧れた時期もあるけど、今は 住めば都 という言葉のニュアンスが少し理解できるようになってる。都会 という字をジーーーッと眺めていると 都で会うモノが多いから都会といったのではないだろうか??なーんて勝手に想像してみた。 今はどこにいてもスマホで調べることもできるしアプローチやメールができる。いい例の子供たちが深く深く探求してるから大人以上の見識に分析力に想像力に技術があるからホント尊敬する。彼らが天才より秀才なのだと思う。きっとスマホの使い方もビックリするほど違うのだろう。そういう子にスマホの使い方やつきあいを聞いて教わってみたいなぁ。好奇心や興味を持つことって、理由理屈なく。楽しいおもしろいって感覚は、簡単にできないことが習得できるようになった間にあると思う。間、ってことがとても重要なんだなって思う。人と人の間、人と何かとの間、物質や結果よりも間をどれだけ丁寧に大事にしたかが見える時なんだなぁ。間を省いたら、生きてることじゃないような気がしてる。

  • 都会

    都会で数日過ごすとわたしは田舎者だなぁ って感じる、風や海や山の自然感じ田舎はいい意味でマイペースでしっぽり居られる。刺激を求めると少々不足するかもしれないけど・・一長一短 笑。何が違うかと表現すると1㎥の空間の中を埋める物がすこぶる多いと思う。例えば、電車の中の人の数も、陳列に並ぶ商品の数、隣の席との距離も。。。兎に角、間に埋まるものが多すぎる。多くの物品から選ぶ楽しさもあるけれど、不必要なものが多いのは困りもの・・。それが必要不必要関係なく流れ込むからどっと疲れてしまうのが私。だから「洗練」「垢ぬける」「粋」というのにこだわってしまうのが癖なのか性分なのかもしれない。ごちゃごちゃ雑多「無粋」「野暮」「粗野」の対極でありたいとつい思ってしまう。日頃、使われる言葉も昭和初期よりずいぶん減り、昔の字や書の達筆さもうっとりする、平安時代なんて和歌返歌で気持ちを表現してコミュニケーションとっていたなんて高等すぎ・・。調べながら日本語には本当にいろんな言葉と表現があると感じてしまう。お点前は全然身についてないお茶稽古も非日常言葉や書が溢れていておもしろいのでお点前そっちのけで習わせていただいてる。何が伝えたいかっていうと、周囲の考え・言い方に振り回され落ち込むよりも、私の中でおもしろい楽しむ機会を持てれば田舎でも十分いいと思う。身近で探し気づけば何でもそう楽しい。食べ物だって、人付き合いや関係だって、話す言葉だってファッションだって好奇心の対象を探し感じればいい。感じるにこだわって生活すると都会は正直いらないものが多すぎるし不便も多いし、勝手に消耗させられるモノが多い・・。笑

  • いいひと

    私の味覚はお子ちゃまだ。懐石料理からお茶を頂いた初釜の席でもてなされる馳走や珍味が食べられないのだ。見た目や匂いでイヤなものを受け付けないので口に投入など全くできないのです。拒絶の仕方半端なく気絶もしくは失神級なのです。笑 どんなに食べてみたらと薦められても全く口にできないのです。大人げないのです・・開き直りで、食わず嫌いで十分なのです。何が言いたいかというと、みんなと仲良くしなさい、嫌いといっちゃいけないと言われながら教え育った世代の心に葛藤とモヤモヤ、こんな私はいけないという自己否定や何かにぐっと我慢していたりしてる様子があるようなのです。何でその食べ物が嫌いなの?と言われたら・・あれこれ理由をつけられますがニガテやイヤなものはしょうがないのです。だって、シンプルに嫌いなのです、そして、合わないのです。この合わないということが大事なのです。合わないを必死に無理して我慢して合わせようとしていたほうが大半なのです。好きじゃない嫌いだからと露骨に攻撃したり排除しようとすることは子供がすること、大人ならスマートに社会人としてのエチケット身につけておけばいいだけのこと。合わないことをそのまま自ら認めればいいこと。すっごく我慢して同化する必要はないのです。合わせることの加減や限度をきちんと持ちましょう。合わせるのは社会人として人に迷惑をかけない程度であればいいのではないでしょうか?自分の意思を押し殺してまで合わせて付き合う必要ないと思います。そして、幻想のイイ子、幻想の優等生でいることはないです。自分が心地よくいれたらそれでOK 無理や我慢し過ぎないという事と同時自分を作りすぎないことが大事なのかな。私いい人ぶるのやめてラクになれたかもしれないです。

  • お年賀のあいさつもSNSになって ワードセンスがキラリ光る方はやっぱり素敵だ。シンプルかつ響く!うっとりと憧れてしまう。視覚以外でセンスのある人センスのいい人になりたい。正直ここでこういう事を書いている時点でダサい・・からのスタートなら恐れも怖さもないのかもしれない。ここでオープンにしたら伸びしろしかないかなって笑 最初からスマートにできた人なんていないのだから・・私は何でもそうだった人より時間がかかり、すぐマスターでき身につけられる器用なタイプではなかったと思い出した。また 気持ち新たにやっていこうと思う。周りすべてお手本に習いながら。身近から改良計画だな!!会話の言葉選び、トーンに口調が聴覚に、食べ物で味覚に、生地の手触り肌さわりに触覚に、部屋の香りや身につける香水の臭覚に・・漂うものがある。その目に見えないものの部分で醸し出す四感アップデートさせていこうーーっ。さてどうすればいいか?まずは何からしたらよいのやら?整形級の変化したいと企んでいるけど方法が思いつかない 笑 難しくややこしくする必要ないなら、シンプルにシンプルにそして、何事も丁寧に焦らず心がけていこう!せっかち卒業だなぁ。できることって些細なことしかない。そして、気づくか気づけないかの微かなところから、自分が自分で気づけないこといっぱいありすぎる。まずは自分をちょっと疑ってみよう。。自分の思考は幼いころからの周りの大人や環境の思考の狭い範囲での凝縮で思い込みでしかない。思い込みの罠にはまらないように無色透明に。。 月は三日月だった・・眺めながら 満月もいい三日月もいいどんな月も綺麗だ。

  • 穏やかな太陽のもと天気も良く和やかな年始めまるで根の生えた植物のように動かなかった私。そんな私の2025年いろんなこと体験して感じ気づいていこうと思います。トライ&エラーは覚悟の上。変化は失う事でないと・・・、すっごく心がラクになった表現のことばに年明け早々に触れることができて勇気が湧いてきた!!変わることへの恐怖がいつのまにか芽生えたこの年ごろ・・・幼い子ども時代は全てハラハラドキドキしながら経験していったように・・・、始めてすることが多かった時からだんだんいつの間にか失敗が怖い、カッコ悪くなりたくない、傷つきたくないって防御じみた言い訳する私でいた。頭で考えてるようでフリで実はなーーーーーにもしないアクション起こすことにビビる私がいた。頭でっかちさんより身体使った試してみようで再び3階グロージェサロンもいろいろ手探りでチャレンジしていこうと決めてる。理想がすこしずつ形になっていけたらいいなぁって思う。本質的な豊かさやしあわせを求めて・・・。豊かさを辞書で調べたら「満ち足りたさま、不足のないさま、十分で余りあるさま」まずは日常に追われず 目の前のこと集中してやっていきたい、自分の肉体、理想、欲望、思考と想像力と周りの知恵を拝借して自らフル活用してみよう。蛇のようにニョロニョロ学び習いながら・・本年もどうぞよろしくお願いいたします。

  • たね

    ジョジョに感じ始めた年の瀬の気配。久しぶりに来店してくださったお客様と会わなかった間の一年振り返りつつ会話が弾んだ。そして、来年のご自分への期待とテーマをおっしゃっていた。会話の中で、新しい年の希望&理想がワクワク楽しさを倍増させてくれた。前回の年末と今の感覚が全く違うのが不思議だ。具体的に去年どうだった?とほんど思い出せない、いい意味で変わりなく穏やかだったのだろうとそして、今年ほど内観する濃い時間もなかったような気がした。物語が続くような去年の年末年始だったのに対して・・この暮れは続編ではなく、新しい章 の幕開けのような何か切り替わりはじまっていく感覚でいる。きっと周りの友人の希望と欲望の活動の素の気持ちに触れお客様からも刺激をもらって、私も久しぶりに来年を意欲的に充実させたいって思っている。年末のご挨拶に蝶々をイメージしたものにした。蝶々って以前も書いたかもしれない(蝶の成長は、卵 → 幼虫 → 蛹 → 成虫で完全変態の生活史)変化を恐れず、どんなふうに自分の変化を楽しみながら、どんなふうに変わりたいかも理想やビジョンの意思や意志がいる。最近、不思議だなーーって思うのがみんな月日は同じで大半の人は夜は寝ている。寝ている時間の長さの違いはあれども集中力&集中して過ごす時間は違うのだと思う。私の身近な尊敬する人達は期日を決めイメージで行動していて、集中して取り組まれている。頭で難しいとハードル持つ前におもしろそう&楽しそうの自分を追い込む必要ないし誰かに認めてもらうための言動行動じゃない。したいなぁ!なりたいな!って自分のシンプルな願望が動力の種だと思う。動力の素の種は誰にも遠慮しなくていい気がするし、あるかないかでいうとある方がとってもいいと身に染みて感じてる。種を沢山もってる友人たちはワクワク楽しそうだ。種って自分の興味・好奇心だから正しい解答なんてない。途中で見つけても変わってもいつでもいいような気がする。いいスタートのわかりやすいタイミングが年末年始なのかなって。

  • 準備

    ロマンティックだけど、願いって叶うって思いますか?私は叶うって思います。願いやこうなればいいなぁーーの希望、こうしたいなぁーーって思う理想を誰かが手助けや協力してくれて実現するのを感じます。先日もストックのコーヒーが無くなっていて、コーヒー買いに行かなきゃなーーって思っていたらプレゼントにコーヒーを頂いちゃいました。些細なことが叶う。おねだりしたことないけど・・・現実化する。やってみたいってこと話したり想像するっていいことだと思います。この冬至の日は願い事が叶いやすい日だったそうです。それで想い浮かべようにしたけど意外となかった・・。笑 ただ海外にいる友とこうなったらいいねーーーって彼女にとっては夢みたい話だったけどど、私も協力できそうなことで彼女の希望が叶えばいいなって思いました。お店でもお客様のリクエストや希望の商品を仕入れてあげたいし、理想のスタイルをカタチにしてあげたいもの。シンプルに人って元々、身近な人の希望を叶えてあげたいって思うものなのかもしれないです。誰かに気負いなく話してみたりするのもいいかもしれない。リアルに人と会話するって最近とても楽しいなって思う。その方の経験や感じたことを聞いたり教わったりして広がるもの。関わりのないところのリアルを聞いたりするとおもしろい。検索よりもリアル。中間やプロセス、途中経過に何か発見するものがあるのだと感じてる。終わりよければ全て良し。始めること行動する第一歩が大事ともいう。。だけど、スタートすることも、結果も大事、夢、願うってまずスタートの準備体操みたいなものかもしれない。どんなこと想像しようかなぁ・・・。

  • 目mo

    寒くなってきて布団からでたくないなーーって朝がやってきている。夜明けも遅く暗い・・真冬の朝。早起き習慣がある人が羨ましく見習うところ。借りている本も進まず。パーフェクトを求めてないし自分に期待もしてないけど自分なりのベストでいたいなと希望はあったりするも裏腹、寒さがだらしなさに加速させてしまうから寒いのは好きになれない。笑 寒さのせいじゃない・・すべて私のこと。お店の裏にいろんなメモや写真を張っていて一種のビジョンボードなのだと思う。目に留まるところに貼っておくのがいいらしい。いい言葉だなーってメモしたのにふと毎回毎回響くところが変わり、初めて出会うような感覚になっているのがなんとも身にもなっていないのがちょっと残念で、揺らぎいつも忘れっぽいなと記憶保てないことをメモ見ながら感じるけど私らしいかと・・笑えオモシロイ仕方ないかなぁって思い始めれている。世の中変化しないもの変わらないものなど何も一つないというのを感じる。変わらないように変化してないように保つために日々が動いているのも現状の今の社会。誰もが変わっていると感じて自分なりに変化できていたら殺伐もしないような気がする。今年ピンチもあったし辛いこともけっこうあったけどいい年だったような気がする。なぜなら気づけた自分がいてちょっと成長した私がいる・・振り返ると感情の波や認識、捉え方もずいぶん変わったように思える。やっと賢人たちのメモした言葉がしっくり自分に馴染むというか、すこし浸透しているというか分かり始めている気もする・・わかったつもりでいた私が恥ずかしい。。笑 まだまだ進化過程。ずっと進化過程でいたいかな。。

  • 空間

    先日東京で空間を感じた。人が先か場所が先か・・いわゆる、卵が先は鶏が先か・・みたいな話。旅先を選べるようになんでもわたしたちは選んでいる。ちょっと前だったら無理だったことが世の中いっぱいある。当たり前のことが増え過ぎたから、当たり前じゃないことに気づくことが難しくなってきてる。引退して家にいる父を身近で感じてると娘目線でアレコレ思う所あってそれを友人に話すと諭された。老いていく父を私が思ったところで彼の人生と。。私にはずっと理解できないだろうからそれを解ろうとするコントロールするよりもありのまま受け入れる方がいいと・・。私がどう感じ思おうと父の人生。父の父が98歳ごろまで田舎で独り暮らしをしていたのとつい比べ、日に日に老いる父に苛立ちがあったのだと思う私の深層。祖父と父は全く違うタイプだ。器用と不器用、何でもできる何もできない身内で比べちゃいけない。笑 個体の個性をありのまま受入れ・全てノージャッジ。良い悪い、正しい正しくないの2つだけの選択から選ばないように生きていきたい。多様性は違いを知った上でわきまえること。全てを受入れるではなく違いを知っておくことが重要。だから、答えを導く知識よりも様々な観点が必要になってきて、拒否否定するより違いを知ったうえでの振る舞いで自己防衛の仕方やスタンスも変わってくる。知ることは決して合わせること受け入れることでもない。何をするにしても知っている解っているのスタンスで物事を見るようになっては狭まって苦しくなるだけ。ちょっと変えて、わからないから父にはそっと見守っておくことにした。親族身内に対しても自分の意思で選択できる。こうでなきゃっていうのも思い込み、その前にまずは自分が自分のお世話をして、世の中一番大事にしてくれるのは自分しかいないのだと気づこう。

  • 適当

    「適当」のような世の中、社会になっていると思う。そもそも 適当の 元来意味は ピッタリと合う(ある状態、目的要求にふさわしいこと) 物事に対して適切なのか判断している であったのに対して、いい加減(ほどほど、中途半端、無責任など)もあったり、例えば、適当なところで切り上げると利用されたり (よい加減 ちょうどいい加減)。適当の言葉表現の様な2面性が、生活のいたる所で起きてるような気がしている。解釈の違い、認識のズレ、誤解 → 適当現象。いい意味での場合と軽くあしらわれた場合 それも受け手次第。受け手が真面目過ぎて柔軟性が乏しく捉え方に偏ったクセがあるとドンドン圧縮されてしまうのではないかと思う。色んな場合で 2、3パターン予測予想できてこちらの心持ちで変わってくるような気がする。この2、3パターンの予想がある間 (ま あいだ) が余裕と余白に繋がるじゃないだろうか・・日本のことばの慮るといったものにつながるような・・。AIが瞬時に適当な回答解答してくれるから心の余白と気持ちの余裕を作る間もない。笑笑 人間ってそもそも本能の動物的なところと理性的なところのミックスで機械じゃない、AIに使われ乗っ取られロボットになっちゃう前に本能と勘を持とう。本能って好きや興味や惹かれる 理屈じゃない。素敵 美しい 綺麗 うっとりする 嬉しい 楽しい おもしろい喜怒哀楽のALL。適当な怒りも哀しみもなければ喜び嬉しいの感情も込みあげない 回答や正解でもなく 答えは固定の1つじゃない。本人に適当な物事を探し見つける間(あいだ)が生きてることじゃないかなぁって思ってる。

  • 誰が、どのタイミングでどんな言葉で表現・・・伝える側の工夫はいるけど、響くか響かないかは受けとる側次第。最近私事で日常に身近な存在の言葉が響く・・会話の相手は深い意味なく生の経験からの生(リアル)の思いと 透明(計算も駆け引きも下心もない)シンプルな言葉が淡々と・・本当に有難かった。親しくしているからといって共に四六時中過ごしている訳ではないから 日常の体験、情報、感じた思いが言葉となって伝わってくる。陰った雲間からのぞくお陽様の光みたいなキッカケとガンジガラメうや力入れ過ぎたものをふっと抜いてくれるものになる。道しるべの見つけ方やヒントを教えてくれるのは意外と身近にいる。感情的な荒れた言葉や環境はそろそろ引退しよう。忘れていたけど差し出す言葉はその人の本質が表れるんだった。ほとんど言葉いらない関係というのは究極だった。半人前の私が一緒にすごすって 言葉のやりとりなんじゃないかな???って思ったし言葉にしないことも思いだったりする。学生時代言葉足らずでうまく表現もできず、そもそも思いをどう表現したらいいのかわからないままでコミュニケーションの術が下手だった。言葉のトーンやリズムや表情や全てにどう生きてるか・どう生きてきたかに触れることができるとてもシンプルなツールが会話。見た目だけでも肩書でもないその人の見えないところを感じる。話す方だけにスポットライトが当ってしまうけど、本当に超~~~~~重要なのは聞く側。人見知りや恥ずかしがりやコミュニケーション苦手な人ほど五感フル活用してしっかり聴くことが大事だと思う。聞き逃すとチャンスとラッキーもヒントも逃す。宝のごみの分類、分別みたいに~しっかり!!!!笑 ゴミか道しるべのラッキーか!!

  • 何をかしこい っというのか? 賢さがお勉強ができる事だと思い込んでいた学生時代・・。そこを離れるとそんなには必要ないのかもってことを感じるこの頃。じゃあ何?ってなると行動力、柔軟な対応力、想像力と創造力、素直さや性格の良さやチャレンジする勇気〜思いやり、社会人マナー 時間や約束を守ること、挨拶をする、連絡する。そんなに大したことではないような気がすることばかり。海外へ行く80代のジェントルマンとレディが身近にいた。どこに誰と出かけるかが要になると思うんだけど、そんなおふたりのように私は80歳のころなれているだろうか?そろそろ年の暮れ、2024年シーズンの区切りがやってくる。億劫になったり、手抜きになったり、臆病になってしまうけど加齢のせいだけじゃないんだなぁってつくづく感じている。楽しもうとすること好奇心もつこと、なにか好きなことに没頭したりすること情熱ってエネルギー量で生命力になるのだろうなあ~~~。失敗を恐れ動けないようになる前に、失敗のようなニガイ経験をするとその分慎重にもなるし知恵もつき怖く恐れることも減るような気がする。トライし続けている人だからスマートに賢く見えるだけなのだろう・・・。今年の経験を2025年に活かせば、私なりに少し賢くなってるはず!恐れを抱く前に忘れる前に覚えておこう〜。

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