AKO’S Monologue

  • 影響・・

    スッポリ抜けてるって自覚する者同士であれば反発することなく足りないもの同士歩み寄れるような気がする。自分が未完のつくりモノだと、自ら作成途中の自作品のように想像すればおおらかで朗らかに居れるような気がする。未完って謙虚という解釈もできるように思う。最年長のお客様と会話すると戦後引き揚げてきた話や戦後動乱、大学闘争、モンペに下駄の田んぼのあぜ道、まるでNHKの朝ドラで見た様な生話、痛みより生きる方の必死さがまさり今では笑い入れつつコミカルに話してくださる様子がまたイイ。痛みあったことを微塵も感じさせないのが知恵なのだろう。正にこれを表わした言葉を「賢さや聡明さ、知恵とはたくさんの知識を持つことではありません。一つの出来事をさまざまな角度から見つけられることです。」凄くいい言葉だなぁ~~~と思う。若いお客さんと会話するとここでいう角度が一つプラスされるからそれもまた楽しい。なぜだろう?どうして?って疑問に感じることは多かったけど中身スッポリ抜けてるから相手の言葉に傾聴する、相手耳不有とは平行だから私はクマを発見時みたいにすぐ後ずさりする。 一つの角度でしか見れなくても解像度上がればそれはそれで深く掘り下げていて素晴らしい個性、自分にさまざまな角度をつけていくと受け止められる人が増えるのと同じ気がする。スクリーンのAI文章に頼っている場合じゃない笑 この角度って生身の人としか加えられない気もする、たまに鋭角みたいな事にも人にも出会うからいいのかもしれない。笑 この度の鋭角事件も私に角度を加算されているはず!! 

  • 影響

    ニガイツライ感じることは進歩の過程で必要なことだと実感、反省すると今までにないオプションが加えられる。キャッシュレス化進行中で私がこの業界に入った30年前頃現金払いが主だった。当時収入少ない私でもカード会員増目的でカンタンに作れていた。ポケベルからPHSや携帯電話に移行にも電話機ゼロ円って事もあったと思い出す。携帯からスマホへの移行も含め数々移行あったこと経験してるはずだけどいつの間にかで全く気づかない。思春期や生まれたときからスマホある人達は私とのスマホの使い方がチガウのだろう。英語が話せる人と日本語しか話せない人の脳の認識が異なるように。学生のお客さんとファッションを通して会話しているといろいろ気づかされる・・、自分の体験(感じたコト)からでしか物事は見えてないのが世の中で、その経験通しての思考延長でしか想像もできない事!例えば、中学生からスマホ生活ならスクリーンの見えるモノが異なるようで、ベッド生活なら布団の敷き方畳み方も経験無いから知らないできないが当然の方になる。私も若い世代と話していて老害になっていたという事笑。こんな経験有無どちらでもよさそうなことが微風のように影響しているんだろうなってこと。 影響が影で響いてくるとよく字の如くで感心する。頭の論理理屈だけでは腑に落ちないことが社会生活でいっぱい起こる。痛みというのは悪い物ではなく合図だと聞いたことがある!その合図は自分と向き合う合図で、その合図を誰かと繋がれる鍵でもある。私たち世代の「知る」「わかる」と若者の「知る」「わかる=理解」が違うこと、実はすぐ身近で影のようなスッポリ抜けてるものが大きく充満してる社会だと人と接して感じている。どの世代もお互いのベースの経験がない事への認識の不一致という自覚がスッポリ抜けてるコト。

  • 東京に大阪に福岡出張で繰り返しよく行く街はあっても最短距離で移動していた。最近は足を運び少し広く周囲見物に足を運ぶようになった。きっと経験し感じることに意識を向けているから、すると目にする建物や行き交う人の気配や様子がどんどん流れ込むようになった。前は焦点が合わず見えていなかったものがピントがあい鮮明になる。なんであんなにも急いでいたのだろう?急ぐことで心はより落ち着きを失っていた気がする、だから時間をかけて丁寧にゆこう!そう思えている。とても古い建造物は漂う気配がチガウ威風堂堂としていてかっこいい時代に流されずどっしりとした深みがある、きっと至るところに丁寧さがうかがえるのもひとつだろう。職人のプライドと技のカンセイが丁寧さのように時を超えているのだろう・・そして長年ずっと大事にされてきた思いの熱量なのだろう。私は旅先で必ず果物を食べる癖がある笑、どこかの土地で育ち実り収穫され運ばれてきた果物を違う土地からやってきた私が口にする不思議な一期一会だなぁって、馴染みのない大都会で違う国からやってきたフルーツと田舎から来ている私の偶然の出逢いご縁を感じながら今回もしみじみと食べた。意味なくても意味があるようになっていくのが人生なのかもしれないと~何気なく手にしたものでも丁寧食べると意味が深まるように・・丁寧に過ごすって一瞬一瞬や一つ一つあんまり意味のないようなことかもしれないけど丁寧さが細部にあれば総合的に全体像になれば際立つものがやどるのだろう。都会のホテルで一人でいると周りをみるから自分自身そんなことが思い浮かんだりするのかもしれない。。多国籍な言葉と灼熱の夏の熱気のせいか異国情緒たっぷりで一瞬どこか遠い所にでも行ったような気に勘違いしたからそんな事をふと思ったのかもしれない笑どこにいても私は私でしかない笑 だから大事にするのもまずは自らかな~。

  • 無知

    無知は罪なりとソクラテスがいったようだ・・会社が粉飾決済や偽装していたのにはホント参った。会社だろうが、人だろうが誠実さがとても大事だと思い知らされた。何かを判断決めるときになんとなく~はホント危険だ。独立開業する際に紹介してもらい(株)全東信 カード決済がスムーズで今まで何不自由なくやってこれていた。突如破産を知ったのは、機器故障と電話問い合わせするも繋がらずオカシイなぁ~、太陽フレア電波障害?サイバー攻撃?って検討違いの想像して、カード関連の知人に電話してだった。常日頃TVやラジオにデジタルも見聞きしない遮断生活が仇となり今回学びになったところ。どこで何を通して情報を得るか改めて検討する。信憑性は?入手した情報の見方+私個人の捉え方判断も俯瞰視できる力とフィルターのない聞く耳を持っていたいと思った。例え、同じ報道でも立場経験が違えば捉え方は全く異なる。客観的に物事を捉え消化することがやっぱり智恵なのだろうなぁって。今や暗記勉強や学歴で知性とは言えず生活の中での知恵と見識のこれからなのだろう。人の行動すべて内面の美学になる。感覚や思考での振る舞い言葉態度礼儀、人物の内面がはっきり表層化する。電車ないで濃い香水の匂いはオシャレじゃなく悪臭にしかないそれに近いと益々実感している。匂いというナーバスな内容をちゃんと指摘してくれる関係の人がいるかどうかなんじゃないだろうか?なにをどう選ぶかの行為も自分次第なのだろう・・その価値基準は日に年に自然に意識して変化するのが生活だろう、なんとなくは時間だけが過ぎるだろう。価値観が段々ついていくのも人の歩みと思っている。似合わない服が出てくることも疎遠になる付き合いが出るのも仕方ない事。昔、砂浜ビーチにピンヒールを履いた女性と男性がデートしていて違和感。ピンヒールも妙だし歩きにくそうにしている女性に気にかけない男性もだ・・突如女性から想定外のデート先だったのかもしれない。どっちもどっちだ。私だったら裸足で歩くを選ぶところ・・適応力かな。笑 

  • 些細・・

    些細な事がとても大事なのだなぁって最近になってつくづく感じるようになってきた。会話中の一つのフレーズ、自分の日頃の姿勢、本の開くページ、パンツ丈のわずかな長さ、それで印象が変わってくる様に・・ほんのわずかで些細なことが影響しているのは確かだと!久しぶりにお会いする方に痩せた?って聞かれること度々。若い頃のように誉め言葉で喜びに直結するものじゃない事を重重承知でよぉーーく理解している今の私を。いろいろ体を使い実験中だからそれがパズルのピースのようになってきていてその印象になっているのかもしれない。髪の色、朝ちょこっとするストレッチのようなヨガ、歯の矯正も終盤で歪まないようにしていたり、プロテイン飲んだり笑、基礎化粧変えてみたりちょこっとずつやっている。年齢分使用中のこの身体を自分自身が少しずつ労わるような気持とケア(気をつけたり意識したりすること)がアチコチになっているのかもしれない。ガラッと変わる大変身をカッコイイと思っていた10代や20代~笑 大変身はできないのが人生なのじゃないかなぁ~、生活の意識する点をちょっとずつでいつの間にかなっているのだと思う。私は意固地で頑固になりやすい性質とあり、気をつけなきゃと思いつつももうどこから頑固で意固地になっているのかさえも不明な現状になっている笑。こだわりと頑固は紙一重だからどっちに出るかホント意識しなきゃでいる。冷静に!落ち着いて!美徳ってところでの判断ベースだと心がけている。些細なことって無意識で行ってしまったり、感情を支配できずに感情のままの突発的なのは大人気ない所。些細な点の意識の持ち方が人間らしい生活になってくるのだろうな・・意識高い系?って揶揄されてたことあったけど、意識全域系の時代になってきたように思う。

  • 些細

    久しぶりにふと目に留まった本をもう一度開いて読み直してみる。自分が買っておきながらその存在すら忘れてて・・内容なんて微塵もなく・・AIとは大違い!笑 初めての対面するかのように内容がしっとり沁みていくような気分でいる。きっとまた忘れてしまい繰り返すだろうとしても、私は手元に残す本とサヨナラする本があり代謝がいいほう。その時の気になることで購入する本も違う、ただ通り過ぎてかすっていくような本もある。その時の心境で響き方も違い残るモノも違う。残念ながら何度トライしても最後まで読めない本もあって私の脳力の低さと集中力の無さもあったりする。服選びも近いものがある数年前から手元にあるのに急によく着始め愛用アイテムになったりしたり、何故この服が好きだったのだろう?っと見つめることになる本もあったりするから不思議だ。同じ場所にいてもなにか少し・・微かな・・僅かな・・あるかないかのような加減のニュアンスで居心地も 本だと文も 美術品の目に留まり方が異なってくる。私が変わるから気づけるようになるのか?周りがなのか?気づくというのはどっちが最初なのだろう? 雑草がいつの間にか成長しているようにわかりやすく誰にも目に留まりそうなところにあったとしても一切目に入らないものもあるように!! どう見えるか?どう捉えるか?どう解釈するか?どう判断するか?どう選ぶか?全部まとめてどう日日過ごし生活するかだと思う。日常の些細な事がとても大事なのだなぁって感じている。湿度高く自律神経が弱り心身弱っている方も多いようで ムリにカラ元気 カラ明るくいる必要はない、益々ジメジメ湿度あげてしまわないようにつとめたい。ステキな大人は自分を調整できるはず・・、ただなんとなくでもジメジメでもなく、周りや他人のせいにもしていないと思う。

  • 7/1

    今日から2026年後半スタートする。早いような遅いような・・の心境きっと降り続く梅雨最中で空も晴れないからかもしれない。スマホから遠ざかり何となく見る機会が益々減ったこともあるからのんびり流れてる感覚の中にいることがふえたかもしれない。気持ちのどこかで焦り急いでいたセッカチな性質が50にして少し変化があった。速いが良い という単純な刷り込みが少しずつ薄れていて、ちょっと余裕やゆとりや余白を持ちたいなーーって思う理想の私像があるからかもしれない。もちろん約束や時間も守る事は変わらないけどそれまでの時間の取り方やスケジュールの入れ方も変わってきた。先日も朝電車に乗り遅れた・・前だったら時計とにらめっこしながら急ぎ足のダッシュで飛び乗っただろう~笑 時間気にせずマイペースで過ごすよう意識してるからか&余裕と余白を心がけて作ろうとしているせいか・・急いでもいるときと焦っているときと実はあんまり大差がないんじゃないかと錯覚してきている。なぜあんなにセッカチで焦って急いでいたのだろう?笑 ゆっくりしているというのがちょっとワルイことと捉えていた所もあるんだと思う。ゆっくりできることは「今」を味わい過ごす深みになる行為なのだと感じる。なんとなく考え事や色々思い浮かべぼんやりは生産性ゼロで無駄で勿体ないとどこか罪悪感があった。何かする=生産性UP、予定あるから=充実・有意義とも限らない、どこかメリハリ過ごす海外のライフスタイルを真似るような感覚になってきた。何も予定がないからってカラッポなわけでも存在しない訳でもないし何もしないからって価値がないわけじゃないって・・。他人の刷り込み価値観でいるより私主体でいるといつか価値観となるのだろう・・集中することもオンオフあることも、植物みたいなときも全部私の日々、色々考える今年の後半で人生も後半カナ。

  • 場所を変えるといろんな物事が見えてきてそして私自身も見えてくる・・。始めて訪れる場所は切り取った部分の写真だったり、スクリーン越しで見た事はあってもやっぱり百聞は一見に如かず! その場に居ないと感じられないことがいっぱいいっぱいあるものだなぁってつくづくある。初めての場所での経験はドキドキ&ハラハラ&ワクワクで全五感フル連続使用するからとても感覚が鍛えられる。緊張と勇気の間で歩く道一本をどっちを選ぶかで見えてくる景色もかわってくる・・未知領域を過ごすって人生とちょっと似ているのかもしれない。場を変えて身を置くことで自分の知らない別の自分を痛感する、好奇心旺盛だけど柔軟な適応はやや遅れ気味、咄嗟の判断力も遅め、興味ない事は見えてないから視野狭め、警戒しようとするが全く疑わず鵜呑みにする、体力はある方と思っているのも実は勘違いで体力低下進行中。そんなことを自ら感じてくる。旅や場を変えると成長させてくれるキッカケが多いのだなっとつくづく思った。実は生活全般が刺激が多いのだという事も感じた、通り慣れた道や場所というのも何度も経験してるから刺激少なく過ごせるだ気の事、ホントは些細な事も十分刺激になるのが生活なのだなぁっと。場を変えることも会う人も変えてくると全てが変化の起点になるし、自分をほんの少し変えてみるだけでもキッカケになりジョジョに変わってくるのだと思った。自分を変えることって口角少し上げるだけで余裕がちょっとでたり、言葉一言、座る姿勢一つでもだんだんだんだんと少しずつ進み始めるのだと。言葉出さないことも伝わり感じ気遣うこともあったりすることもあれば、言葉で言っても伝わらないこともある。様々な場を訪れながら人が場を作りそして人が場を乱すこともあって、双方の意識や人柄が影響するのをとても感じた。AIにはそのニュアンスってわかるのだろうか?笑

  • 除湿器

    時間というのはホント面白い スローモーションのようなときもあれば一瞬のようにも感じられる、ホント不思議でたまらない。昨日の夏至に長い陽差し全く感じられないまま・・一日一日がとても長い気の梅雨の日がある。低気圧のようにちょっと低いほうへ雰囲気と空気事持っていかれてそうになるから沈まないように水面に顔を出して空気吸ってるような感じで足をコツもつかめずもがくうごき・・。必死になるとチカラが入りすぎ重くなるからカルーーークいるようなイメージ。水面に浮く乾いた流木をイメージしてプカプカ浮いていよう。軽くはイイことも時にある真剣に考え悩むこともあるけどこう湿度の高めのときは軽くいよう。除湿器をフル活用しながら・・。除湿器のような空気清浄機のようなエアコンのような身近な人がいると快適にいれる。どこかに負荷がかかった時に気づくもの・・。いつも除湿器やいつも空気清浄機やいつもエアコンで役割ができているより時と場合で役割がコロコロ変化していい変化し合える関係が一番いい!!機能だけじゃない繋がりがあるといい。柔らかくしなやかに変幻自在になれるってことが大切なのかもしれない。。。正しさや正解を探すよりもよくわからないけど適応していきながらがいいのかもしれないし、ムリしすぎないでフラットな関係お互いさま~の軽さと柔らかさで過ごすのがベストかもしれない。梅雨時季も一年で捉えれば必要な意味のある時期。梅雨明けしたら とけちゃうような暑い日がつづく花火にかき氷に浴衣に海にスイカにサンダルと夏を満喫するアイテムが揃う。耐えかたもかわしかたも色々あっていい1時間や1日で思っちゃうと辛いけど、ロングスパンの1年で捉えると大したことないような気がしてきた。。開けない梅雨はない。笑

  • わずかなこの時季の風情を楽しめる蛍、今年も観に行こう・・まだ間に合う毎年一度は鑑賞に行く蛍狩り。蛍のほのかに光りふんわり消える浮遊しているのはなんともいえない。光だけを人工的に真似たとしても何か異なる。美容整形を否定しない、だけど人工的に伸ばされたしわのないハリのある肌に優しさやチャーミングな笑みは感じられない。美しさって一部じゃない・・美肌といってもしわ、シミ、たるみ、ハリの問題だけでもないし、髪の毛も白髪、色やセットや前髪だけじゃないし、爪もネイル塗られているだけでもない。目にとまり目で感知できる面や部分だけが美しさだけじゃないと言いたい。パッと見の一瞬の美しい肌として言葉遣い汚く愚痴ばかりだとどう?ヘアスタイルキマっていても姿勢悪く猫背でスマホ覗き立つ姿で凛々しさはない。キレイどころの多いアナウンサーでも箸の持ち方や字が汚いと残念だったりするのと同じこと。多くの女性と接してきて勘違いしてほしくないけど、ただ細い身体だけで美しさにはならない事を。ランウェイのある世界4大コレクションに選ばれるモデルさんを身近で見る機会あって、正に宇宙人!ってこの表現がピッタリ。私が見上げるほど高い身長で顔が恐ろしく小さいし細いのに筋肉メリハリある肉体だったからスーパーサイヤ人って感じ笑。そのぐらい凄く圧倒されるが・・美しいというのとはまたちょっと違ったものがあった。私は年齢体型性別関係なくどんな方も来店してくださった方にファッション、お洋服着る嬉しさ喜び楽しさ感じてほしくてお店オープンした。美しさって目に飛び来む面だけじゃなくて全ての総合なんだと思う。年齢や性別や体型さえもない言ってしまえば学歴や職歴や役職でもない生き方と在り方なんだと思う。蛍を画面越しの映像で見たとしても感動する?一度もリアルで体験してない人は感動しないはず、感動や心が動くことって総合で実体験で感じないとムリだと思う。それも家から体を移動するところから始まるもの・・・で体験して感じないと何もしてない事と同じ。

  • オルゴール

    と言われて音色が奏でる人はいくつぐらいの方までだろう?お客様との会話中で万華鏡は子供の自由工作で作ったよ~っと家にもあったけどいつの間に消えてしまっている万華鏡もビードロも砂時計も・・。キャンディのチェルシーのヨーグルト味を頂き一瞬にして溶けてしまう生触感・・懐かしい。懐かしむって後ろ向きだけじゃなく今があるから懐古できるのだと思う。今と過去はコインの裏表のようなモノっと例えられていたのを聞いたことがある。過去と今、今と未来もコインの裏表のセット。表裏一体なのだと思う。過去があるから今を感じる未来も想像できる。今でしかできることはないと思う。どう想い過ごすかは今のみ選べる。バイヤーとしてセレクトしながら服を選ぶこと、お客様と一緒に服を選ぶこと、会話で言葉を選ぶこと、電車の中でシートを選ぶこと、どれも同じ行動のキッカケになる一歩目には過去と未来がくっついてる。オルゴールもビードロも万華鏡も砂時計もあってもなくてもどっちでもいいかもしれないけど、音色、ガラス細工の繊細さや儚さ、幾何学模様の美しい色を一瞬の儚さを感じさせてくれるもの、忘れていたけど溢れこの環境に慣れきってしまっている今。生産性とか損得とか利益とか勝ち負けとかそういったもの以外の情緒や風情や微かなニュアンスがドンドン消えて無くなりつつある。オルゴールの撒いたネジが止まりかけるときの音の可憐さは今のタイパや倍速視聴する子にはどう思うのだろう?美しいとか綺麗とかって教えなくて感じ身に付いていくモノなんですね・・ってママのお客様が話していたのが印象的。お店に来る子供たちが綺麗ね~とキラキラしたものや色に惹かれるってその子の感覚なのじゃないかな・・、教育は本や学校だけじゃないと思う。消えていったモノからも何か感じ取ってる・・。

  • 土壌

    やっと・・人を育てること がどれほど大事か痛切に感じているこの頃。独り身の私がいうのもヘンだけど、だから余計に思うのかもしれない・・。社会のbaseに人なんだと身を持って感じている。私はお客様との対話で人という土壌で育ててもらったのだと感じている。人=土壌は人柄だったり考え方、経験感じ気づい行動されたリアルな言葉だったりする。自分の物事は知らないことばかり自分の常識を疑えでずっときた。アインシュタインは常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションだと! 田舎育ち生活でスマホが情報源って危険すぎるから信憑性疑い、どんな人が誰が発信の一次情報かは見分ける。豊富なリアル経験の方と接して教わってきた。土壌を変え適した所に居れば芽の出る種もあり育ち伸びることもある。人を含めた環境はたった一人だけではどうにもならないことやどうしようもできないのも事実、先日知人に送られてきた記事でもつくづく思った。人との出会いで方向性定まり脱皮や変身するキッカケにもなる、人のチカラってホント凄い誰にどんな人に出会うかだ。。。全てはキャッチする能力(センサー)で受け止める側次第。消化力がない人に栄養タップリの智恵や情報があっても消化不良で食あたりでお腹を壊すだけ・・加齢とともにそうなる人が~苦笑 田舎育ちがタフ&ワイルド育ちならいいが送迎付き誉め言葉で逆風なく無機質育ちにならないように~。 大人の浅はかな言葉や態度の土壌が人を潰し、人を育てる気風は一切無いから不毛の土壌が田舎なのかもしれない。雹みたいに一瞬なら凌げるけど、環境汚染自然破壊のように長年なんとなくでじわりじわりでタチが悪すぎる。苦笑 まずは私の土壌を耕し水やりをしておこう。。 

  • 仕入れ

    たまに質問されることで、どんな感じで仕入れをしているの?っと・・・私の場合ほとんどがインスピレーションで直観。素敵&好みで自分基準で決めている。もちろん担当者の情報は聞くが、生地、縫製だったり色だったり、価格とのバランスだったり実用性やシーンや気分や旬の全てがミックスされての判断。例えば、好きな食べ物や美味しいは十人十色の好みで良悪や正解不正解の答え一つじゃないのと似ていて、判断や決めることはどんなことでもいいと思ってる。自分の責任でキチンと判断決断することが大切で~それは身の周り全てどんなことにしても言えることと思う。流行りのアイテムを着るからセンスやオシャレとは私自身はあまり思っていなくて、洒落っ気って私は大人の余裕や余白と遊び心だとも思っている。元は贅沢や華美が厳しく制限された時に裏地や見えない部分や細部に表だってではなく個人の楽しみだったことから洒落って所もある。だから個人がどれだけ楽しんでいれるかがスパイスのような隠し味の要素で自己満足の世界だとも感じてる。見るだけでもその楽しんでいる心の様子が感じとっちゃうんだと思う。やっぱりお気に入りや着心地いい服は気分も良く穏やかになりご機嫌よくいられる、多少何かあっても笑顔でスルーできちゃうのかもしれない。他人の評価や認めてもらうことより自己満足で自己信頼になりつつある時代の流れ。自分で自分のご機嫌を取る、責任を取る生活全般大人の行為振る舞いがもっと大事になってきたと思う。AIのせい、他人のせい、周りのせいにすることはカンタンだけど取返しのつかない事が起きている。何でもどんなことでも自己責任だからこそ、慎重になりいろんなことを時系列や何パターンかで想像する力が必要になるんじゃないだろうか?私も何パターンかで想像はしつつ今判断している。それは自分のできる範囲でちょっと先を見るようにしたら今の判断が一時の気分感情で済まされなくなると思う。

  • +ー・・

    想像しないような言葉が返ってきた。その時きっとイヤミ言われちゃうかな~注意叱咤されると思っていると予想外の優しい言葉だった。もし自分にイヤなことあったら感情あらわになってしまうところ穏やかな促しそれも柔らかく伝わる言葉だった。人徳のある方は私的感情入らず物事を言葉にする変換能力と伝える能力があるんだなと気づかされ恐れ入った。もしそんなとき私だったらどんな表情でどんな言葉発していただろう?って想像してみたけど私よりかなり若い男性のような言葉はできないと思う。大人の振る舞いと言葉表現は圧倒的器量ヨシや人物像を感じ尊敬になる瞬間だった。大人が大人の振る舞い(言葉、接し方)をすると世の中がいい方へ変わるんじゃないかと確信した。ストレートに感情あらわに言うのが当然で何なら言わない方がいい、関わらない方がいいという社会であのようなスタイリッシュな表現と言い方ができるってスマートだったし人柄を感じた。どうしたらであの様にきるようになるのだろうか?って思う。いくら本を読んでも身に付かないし、きっとそういう人徳ある方、器量の大きい方の傍にいないと身に付いていかないものだろうなぁって思った。正真正銘大人が広い見解から発する言葉ってプラスマイナスも含みつつ注記促すもので自然とスーーーっとこちらに浸透するような表現だった。身につけるのは服だけじゃなくもっと深い部分の見えない部分で充実させたいなと思った笑 チクチクトゲトゲした言葉じゃなく薫風のような心地よい風のような表現、伝えることのできる人になりたいなって・・折り返し地点からの遅咲きだけどこれからのテーマだわ 笑

  • +-

    足していく時期と引いていく時期、身につけていく時期と削いでいく時期。入社新人さんが教わり吸収していく時期や新入生が生活に慣れてゆく最中もこの時季5月なのだろう。オシャレに芽生えて流行りアイテムが目新しく映るときはアイテムが増えていく、段々年を重ねファッション関心長くなると流行がリバイバルで巡っているのを実感する。私のお洋服はデザインある個性的の濃いものに惹かれた時期もあったけど削いでシンプルになっていったところがある。削いでいくと細部ディテールが気になり千利休の茶道具のようになったりする点があったりする。スッキリとした無い美しさは洗練という事を表わす感じ。言葉も多く並べればいい訳でもなく、「睡眠不足で休みます」とそのまま言ってしまえる社会も・・苦笑 連日睡眠不足もどこで線引きするかは難しい。線引き区切りは育った環境も影響すると思う。私が学生の部活で経験した環境が普通当然とちっとも思わないけれど、指摘注意せず褒めて伸ばす教育はどうなのだろう?って思ってしまう。褒めるもタイミングで毎度褒められるが当然で過信につながるのでは?私の場合はくやしくて伸びた点も、劣っていたから勉強したし、センスがいい人を真似たりした。短距離走が速くないからマラソンの持久力で挽回もした。自分を知ることで行動するキッカケが作れたと思う。見方次第で人との比較がすべて-じゃない自分を知る+になると思う。私はラッキーで全国模試1位の子が同じクラスやプロ入りする子と一緒に練習できたこと、圧倒的にスゴイ子がすぐそばにいるといいお手本になり吊られて伸びたかもしれない。環境に影響受け人から感化されるのは学生時代だけじゃなく大人になってからも同じこと。木は枝を切られたらもっと成長するらしい。高いビルの街路樹もビルに習い上へ上へと育つ。枝切るタイミング間違えちゃうと病気の元で枯れる原因、超高層ビル横だと陽当たらず育たない。時期と環境!タイミングにあった一言でやる気スイッチや気が引き締まったり、ジーーーーンと響いたり。言葉は慎重に扱おう。多いが野暮になることもあって少ないが洗練されていくこともあるのは服でも言葉でも同じに思う。

  • フラット

    わたしのお店のコンセプトの一つに近所のたばこ屋さんのように~っというのがあってイメージは、映画「三丁目の夕日」に出てくるたばこ屋さん役もたいまさこさんのような存在だったりする。いろんな捉え方はあるかもしれないけど、フラットに話せる存在っていうイメージかもしれない。私も緊張するそれよりももっと初めて来店されお会いするお客様の方がもっともっとドキドキのはず・・。ちなみに私は人見知りだし今でもたまにのぞく。ただ言葉だけじゃなく相手に伝わるモノには気をつけている。でも、その前に自分がどういう風なイメージを持たれるかは把握しているから、その部分が悪目立ちしないようには気をつけている。言葉少なくても伝えたい思いや察しよう組もうとすることでお互い歩み寄れることはいっぱいあると思う。ただお互いの歩み寄り!上下じゃないフラットにいれるから巡り始めることもあると思う。仕事上立場で責任の重さで上下できてしまうことはある、組織が巡りよくなる役割。社会のアチコチで役割上伝えないといけない事が必ずあるはず。例えば、自分一人で判断してよいこととそうじゃないこと、任せられることも立場や役割に違う。独りで完結することなんて人間社会はありえない。「コミュニティの一部になれていることを誇りに思う」と英リッチモンド住人の多くが話すのが印象的だった。コミュニティ=市全体と捉えているのがとても衝撃的。市街を掃除もコミュニティの一部だからと伝統の技を残すことの誇り、仕事を受け継ぐことも誇り。。。いつからだろう?日本のコミュニティは小さくなりすぎ単位は一人称で、直ぐハラスメントっ苦笑 フラットに居れるって双方の敬意や尊重の思いがあって成り立つ。お互い様って言葉が日本にもあったはずなのにね~。

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