手
手抜きorべんり って紙一重・・見え方が違うだけのような気がする。そうめんを食べながらフト・・衣替えならぬ器も季節で変っていたことを思い出した。食器棚の手前に夏のガラス食器を奥に鍋の取り皿などに移動していた多分小学低学年ぐらいまでしていたっけ??と母と懐かしく会話した。母の実家では、家が夏の装い襖をとり簾に風鈴、おじいちゃんお手製の網戸、涼生活になっていた。夕方祖父が打ち水をしていたこと 夏の風物詩のようなシーンが思い出される。今朝も先生とご一緒に児玉公園の児玉源太郎の命日(藤園忌)因んでのお茶会へ。藤色、藤の花の香合、7月24日が命日で数珠草と黒ほうずきが経筒に活けてあり、思いと祈りが表されていた仏と供養につながる道具組だった。手間をおしまず、手入れってコトバを感じる。ナス、きゅうり、かぼちゃだって勝手に育ち実ったものではないし牛乳だってお米だってパンだってただの商品(もの)と見るか・・最近、私は自分では作れない・・自分ではできない!代わりに人の手と労力で作ったものを感じる。物価高騰とインフレが日本を覆っているけど、そもそも自分で作れば??って言われたら、何一つ作ることができない事を思い知らされる。誰かのお陰で作られたものを頂くと思えばすべて有難い。物をどう見るか?事をどう見るか?梅雨があるから水不足に悩まずお風呂も毎日浸かれ汗を流せる。太陽のおかげで洗濯物もカラっと乾き気持ちよく衣類もタオルも使える。シミや日焼けよりもある程度の日光浴ができるから心身共に健康でいられる。植物があるから酸素が吸える・・全て見えないお陰様で生かされてることで、今あることを思えたら自分都合の自己解釈だけでのコトバを発する幼稚さを改めたい。何も言わないものが偉大だ。。