AKO’S Monologue

  • 秋気配少ないまま10月半ば迎えてる・・そろそろ来週あたり寒くなるとか・・、秋晴れと裏腹になんとなく気分冴えない日が2、3日あった。原因はコレといった具体的なことはないんだけど、おそらく些細なことが雪だるま式に大きくなっていって私を覆っていったのだろうと思う。落ち込むことは無いようにしてきた私もいつの間にかのまれていた。こうやって俯瞰して思えるのも身近なの事のお陰だったひとつは友人との会話やラインのやり取り、通勤途中の掲示板の「希望はある」の一言ポスター、朝お店前を掃除していると枯れ葉が渦巻きながら風に舞う様を見たとき・・だった。もともと掃除は好きな家事だからすすんでできるほうで散らかっているのがただ嫌なのだろうけど、枯れ葉集めつつ掃いているとひゅ~~~るるるの風に笑ってしまった。ただ自分がしているからしているだけのことでしょう~って思った。誰かに言われたからでも誰かに認められたいからでもなく、シンプルにただ自分がしているだけの事。どんなことも生活全般にいえることなのではないかなぁって思った。褒めてもらいたいから感謝されたいから自分を必要とされたいから認めてもらいたいと言葉する若い人が多いと耳にする(別の形をした依存だと思うし~の為とか)どこか自分を人にすがりながら行動すると苦しくなるんじゃないのかなぁって思う。若者と違い年長者にはこちら側の勝手な思いや捉え方をして批判や悲観的になってしまいがち・・私も私の勝手な自己暗示の狭い思い込みになってしまっていた。大人になればすべて自分が自分でしていること、他人のせいに親のせいに環境のせいにしていた方が自分を変えずに済むから楽なのかもしれない。。あざ笑うかいたずらするような軽やかさの風をいつも思い出ししたいなって思った。悪意のない明るいいたずら心にお茶目っ気っていつまでも持っていたい。

  • 私が思うオシャレっていろいろ表現できて「こだわり」「好き」「気分いい」「気持ちいい」「きれい」「リラックス」「無理しない」「ガンバらない」「感じがいい」「清潔」全て感覚っぽいところの集約が服なんだろうなって思ってる。だから、骨格や色を診断しただけで服を選び着るって勿体ない気がしてる。一つのパターンにあてはまるはずもなく一辺倒の理屈だけじゃないと思っている。私の接客はトータル頭の先から足、指先の全身が醸し出す全体の雰囲気を大切にしていてその方の好みや理想ももっと大事にしてる。最近は全身使ったパズルのような遊びに似てるなっと感じてる、自分自身が作品とでもいったらいいのかもしれない。ただ着る事をこうやってウンチク言ってる時点で煩わしくメンドクサく思われるかな・・笑 機能と美の共存 建築物、器にしても身近だとフラワーアレンジメントだったり料理の味でもあったりするんじゃないかとも思う。正解はひとつじゃなくて、お洋服は今のベストコーディネイトや今のお気に入りアイテム、今の気分で変わってくるもので常に変化するもの。食べ物だって旬があるようにお花にも開花時季があるように。楽しむことはオシャレも同じなんじゃないかなって思う。アピールするためより自分がどういたいかなんじゃないかなって思う。周囲の目やどうしても環境やシーンに制約は装いでるけど、自分の今を大事に過ごす方法のひとつでもあると思う。新しいものばかり目を追うより今持っているアイテムとあれこれ合わせながらバージョンアップしながらもいいし、お家探検もいい。流行りを追うより本人の気分や感覚を大事にした方がとってもいい。感じることが多いから洗練もされていく。感じることってその人の生きてきたところの歩みだとも思う・・五感活用の表れ。。。だから、好奇心もって何か感じるってとっても大事なんじゃないかなぁって思う。自分の感覚をもっと大事にしてほしいなぁ、それって自分を大事にしている事だとも思う。

  • なにか人に伝えたり、交流はフィーリングが近いとスムーズにいきやすくなる。そのフィーリングは価値観や振る舞い些細なちょっとしたニュアンスなのだと思う。出張の原宿渋谷界隈を歩くと異国観たっぷり~~笑 日本人のほぼいない場所があちこちあって日本人?韓国人中国人台湾人?服装ヘアーメイク振る舞い観察しつつ道を歩いて、もうさっぱり分からない私のアンテナ。異国観たっぷりを皮肉にすると日本人をほとんど感じにくいから。日本らしさってなんだろう?特色っ?想像すると具体的にはよくわからない。今、読む本や学んでいる事からも環境の大事さともにその影響が強いと、どんな人とどんな環境で・・言葉遣いが思考へ、思考が行動へ、行動かパターン習慣へ、習慣が生活全般に色濃くでてくる。どんな環境に身を置きたいかって希望はとっても肝心!今さらながらの今だから!と改めて思う。キッカケを作ってくれるのは人から、ヒントも気づきも周りからだと思う。有難いことに年上の方からは生き方や前向きな明るい在り方、年下の方には今の感覚や話題を教えてもらう。会話には多くのヒントが潜んでいる。日本人って儚さの美が心の根っこにあるらしい。お茶でいう詫び寂びもその流れ。一期一会もその一つかな~っと想像する。都会生活で繊細でいたら憔悴してミイラのようにゲッソリすぐなっちゃうだろうから、大都会は図太さが必要になってくるのだろう。大勢の人の中だと圧倒されてしまう私もようやく少し変われた。いいなぁって羨ましくて凄いなぁーー卑屈や見栄を張っていたころの私もいたけど、今は隠すより無知や弱さを素直に認めているからありのままでいる。周りに素直にいると環境が優しく感じられるようになってくる、勝ち負けも上下もない自然と穏やかな環境がやってくる気がしている。

  • 豊か

    青さ引き立つ秋空で空気も澄んできて気持ちいいのに世間は対照的な様子が漂っている。そんな時だから何を思い笑顔でいるか想像してみる・・やっぱり自分次第の工夫次第のような気がしている。例えば、白さ目立つ髪が多くなり視界にチラッっと入る白い髪にぞぉっとしつつ年齢をヒシヒシ感じ溜息出ていた、今はちゃんと年齢をいつも気にしている訳ではないけどオバチャンゾーンを謙虚に受け止め自覚できている。笑 だから、肩の力も抜けて無理もせずジタバタもせず、少しスローに少し余裕が持てるようになってきた気もする。いい意味で気負いを自分に暗示かけず自分自身を過大過小もせずそのまま受け入れることで上でも下でもない視線で見れて変化してきた。多くの方のリアルな生き方や在り方(悩み、思い、照れくささや綺麗、美しさ、面白さ、個性)を感じ過ごせている有難い。嬉しさも悲しさも楽しさも辛さの感覚感情があるのが大切なのだと思う。誰の言った言葉か忘れてしまったけど、楽しさがずーーーーーっと続いていたらそれが普通になり楽しさも忘れあたり前になってしまう。苦の刺激って本当にない方がいいのかな? 苦痛は進歩するキッカケ、そこから多く学びと成長の伸びしろがあることがある。苦みの分甘みも感じられる。片一方だけの感覚だけでは成立しない。若と老。暗と明。若い時には無かったもの気づけなかったものが今ある気がしている。そして、両方を超え俯瞰したところに禅の無になるのかなぁと思う。ただ美しい、綺麗だけは存在しない。美しい綺麗と感じた側の感じとるセンス。やさしさ、思いやり親切も感じとった側のセンス次第、私はやっぱり全域センスのいい人になりたいなぁ。センスのいい言葉、センスのいい振る舞い、センスのいい人にお金あるないは関係ないお金でセンスは買えない、お金でセンスを磨く体験はいっぱいできることは事実、センスのいい生き方はお金の使い方もセンスがいいように思う、メリハリがあることも豊かな人のような気がする。痛さ、苦しさ、厳しさがあるってとても大事なことだと思う。だから、若い時は買ってでも苦労をしろって流石先人の智恵!!

  • ソロフェス

    以前も書いたことあるけど、私は本読めなかった・・。もっと言えばもっと早く本知っていたら人生違ったといえるし、遠回りしなかったところもあるかもしれない。笑 今の生育より笑 倍速で成長していたのでは?と思える・・先人や偉人、ずっと伝えられている智恵に触れられる本と出会っていれば、ひねくれてた思春期や何故進学するの?って疑問・・ちょっと前向きに明るく過ごせたかもしれない気もする。やっぱり無知は罪だ。被害妄想してしまうのも自分の考えに固執したりその固執にも気づけない。いろんな本に触れて共感もできたり嫌悪したり涙したりする。完読して登山のような山頂の景色のような本もあれば、後味残る食べ物のような本、スラスラ相性いい本や世界の広がる本もる、何度トライしても読めない本もあるのも事実。本も服のようなところがあるなぁって思った。本にも流行りはすごくあるし、有名ブランドのように話題の有名作者がいたりして似ている。人の環境にある人間の作るモノってみんな形は違えどソックリだ。世界の文学をしっかり沁みこめてない私がこう書いているのも筋違いなのだけど、ちょっとのぞき見興味・好奇心もってもらえると楽しいかなってジョジョに変化始まる気がしてる。大人だからちょうどいいタイミングかもしれない。LINEアプリにAI機能がついた時代、便利より人間の楽しみや人間らしさを奪われてしまうかもしれない。話を聞くおもしろさと楽しさと同じで本も似ているようなところがとてもある。話すことで人を感じられる、一言の「ありがとう」があるから人は寂しくない。もっと広く、もっと深く、ちょっと明るくなれるといいなぁーー。

  • ソロフェス

    ソロフェスに提供している場所をつくるキッカケは私があったらいいな~と欲しかったから・・・
    静かな場所で本が読みたい、それが家でも移動の新幹線でもいいのだけれど日常の生活圏内でゆっくりひととき過ごせる空間があったらいいなそこにちょっとステキがあったらより嬉しい。程よい距離感の親しくないけど始まる会話もあってもいいと思う。空間の力ってそこにあるモノ全てを心地よく包むのかなっていいメロディを心が和むようにいい香りで心が緩むように素敵って穏やかな尊重。世界陸上競技中解説者が批判的に批評するので家族中苛立った笑 一人一人全力でこの大会に向けてきていて理論と理屈だけで批判する言葉に気分を害した。スポーツが肉体だけではなくなってきているのは聞いたことはある。分析や理論や頭脳バランスよく取り入れ、周囲の人物環境&論理的&肉体&メンタルの総合だと思う。行動に肉体と頭脳はセットだと思う。料理だって、服を着る事だって、働くこと、植物を育てること、掃除すること全般で。。。損得でプレイする人がいないのがスポーツのいいところだ。競技上の駆け引きはあったとしても精いっぱいプレイしている。自分でもどうしようもできないほどスランプに落ちたり、なかなか調子が出なかったり人は機械のように一定ではない。競技を終えても素晴らしい光景が映る、競技を終えた後の言葉に人間性も表れ素敵だ。個人的な事だけを離す人が少ないのが印象的で競技者を代表して表現される方が多い。世界だから全体を捉えるからとても自然なことなのかもしれない。ちょっと空間を変えたら世界も変わるかもしれない。本のある場所で本を読めない人が好奇心で覗いてもらってもいいし、何かのキッカケにちょっと会話してもいいと思う。本は人の一部の分身で表現されたもの。人に接することに近いような気かする。なにか心が動いたり発見したりオモシロイがあればいいなって思ってる。

  • このタイトルにすると沢山のことが書けそうになる・・水自体、水の環境、気候、自然、水のつく表現に関してだったり。百名山縦走されたお客様との会話で印象的な言葉があった。清々しく満面の嬉しそうな笑顔の山頂写真や美しい高原の花写真も見せて頂きながら、美しい光景の反面崖や岩場の怖さや引き返してもう一度ポイント地点に戻る決断、過信しない慎重な判断、独り歩く気持ちの葛藤も・・・。美しさや笑顔写真には写らないものを聞くと見え方も変わる。山奥の小屋にヘリコプターで運ばれてくる水と食料、着地スペースないから荷だけが地につきヘリコプターの巻き上げる風の中交換作業ゴミが運ばれ戻っていったそうだ。山小屋のお水はとても貴重で高価で命の水。綿密な計画を立ててしっかり準備と覚悟を持って入山しても水は補充しなきゃいけないもの「水は命だからね・・。」ほんとそうだなぁって。身近にあり過ぎて・・昨日も線状降水帯で突如土砂降りに困り果てる・・ほんと勝手な私で人間いや日本人の私なのだ。蛇口の水を流れを見ながら「水にながす」とよく言ったものだなぁあああ。。水はどんなときも流してくれる。水に気持ちがあったらどんなことを言ってくるのだろう?笑 ここ最近加えた 上善如水 の字のメモがよく見える位置に陣取り貼ってある笑 水のように成れたらいいな・・わたしのテーマの一つかもしれない。透き通るようになるにはきっと崖っぷちのようなピンチもクリアしなきゃだ。クリアするからクリアーになれるのだろう。。笑 

  • なるべく機会があればトライしてみようと思い始めたこの頃。。。ここ最近どうしてそんな心境になったかというと、身近な人の影響と若くない自覚をしているからと思う。何か始め習得もスムーズなはずはないけど、チャレンジしているから様子がキラキラしていいなーーって、私も硬く頑固になりたくなくて、もっとカル~~ク心も身もソフトでいたいなって。フットワーク軽いお客様のイキイキしているのも感化される。つい失敗したら・・・って余計なこと気にしてしまうも、そもそも失敗ってアルのかナイのかって言ってしまえば今は無いように私は思う。人生の出来事で希望や想像、予定通りだけってことはない後悔もする、失敗じゃなくて一つの分岐点でそれからもつづいていてそれからどうするかが肝心かな・・って。ショッピングの失敗もないような気がする気分や時季とともに変化する。お洋服の整理したら10年以上前のお気に入りの服が出てきた。その当時とっても気に入っていたその服を着てる私が想像つかないからサヨナラする物とまた着るかもなーって残す物のが半半だった。着なくなった服も失敗じゃなくて内面が変わっただけ、変わった自分自身を知り受け止めたらそれでOKと思う。一度も着ない服には何か理由があるはずでそれも自分を知るキッカケのひとつ。きっとお洋服やオシャレに対して自分の内面変化や自分を知るヒントがあるのかもしれない。服は変わらない、私が変わっただけ。楽しむも面白がるも私の心だけなのかもしれない。

  • シンプル・・

    お茶を習いどのくらい経っているのかわらからない、やっとのやっと身体のお点前と頭の知識が少~~~~~し合致し始めたぐらいの進みよう・・笑。お茶席には暗黙の合図がいろいろあってその暗黙というのが亭主と客の双方がわかっているベースあって阿吽の呼吸でスムーズに席が保たれ流れていくのがいい。そこが美しさの一つだと私は思っていて好きな所。お茶を点てるお点前も言い方変えれば、ただ順番に次⇒次⇒次と淡々と行うことっだと言ってしまえば殺風景な事になってしまう。その順序も大事なお道具から、極力無駄な動きをなくすため、お客様への配慮あってのことなどその一つ一つに意味があって奥があってオモシロイなぁっと思って楽しい。目に入るだけの奥に何か意図と思いがかくれんぼしていてそこに気づけるようになるにはずーーーーーーーーっと先で知識が教養になり身になるぐらいだからいつのことになるかわからない。終わりがないからその途中が肝心で意味があるんだと思える。「道」が付くものもそうだし、習い事もそうだし、働くことも、人間の活動全てが一期一会で似ているような事も全てチガウことなのだとやっと実感できるようになってきた。目からの情報を脳みそ認識が同じパターンかのように当てはめて感知しようとするらしい。いい所でも悪い所でもある。同じお洋服を着ていると安心?飽きた?これって私の気持ちの問題。例えば結果や成果や点数や数字や入賞、順位だけ見るとすっ飛ばしてカラッポになってしまう。その合図のような数字や結果の奥に隠れんぼしている見えない何か気づける人でいたい。

  • 着楽

    猛暑日と違う最高気温にしてもまだまだ汗もしっかりでて涼を求めてしまう9月。秋冬服の動向が気になり始める頃でもあるし、先の予定にどんな装いがいい?って質問や相談されることが日に日に増えてきている。ファッションを楽しむ私も早くから季節感取り入れる着こなしもしなくなってきた。カジュアル化が進み過ぎTPOもなく季節感薄くなってきてしまっている。例えていうなら旬のお野菜お魚の時期を感じない食卓と同じことが起きていると思う。ただやっぱり虫の鳴き声する夜や、秋に実る果物が並ぶと風情感じると秋の装いがしたくなってしまう。ムリはしないで賢く秋のニュアンスを近づけていけばいいと思っている、夏素材の新色も多くお店の雰囲気は秋色になってきている。今の時期は我慢せずで夏秋夏どっち?の装いで十分いい。きっとこの先も暑い秋は続くだろうから上手に色を取り入れたり、少しずつ秋らしくするのがお薦めだったりする。自分の理想や好みや気分やコンディションの自分ペースが大事だと思う。自分を知っていることと新しいアイテムも発見も楽しめる=ちょっとした余裕=オモシロク捉えられる事もマイペースがいい。自分を持つことも大切だけど度を超すと頑固になり新しいものを受入れられず拒絶して自分の思い込みだけで邁進し老害になると記事にあった。お洋服で老害が起きないようにしよう。笑 オシャレって快適に心地よく楽しく過ごす方法の一つと思う。そして、感性や感覚の柔軟性のトレーニングともいえるかもしれない。もっと着楽にいこう~~!!だから、尽きない楽しみとおもしろさが続くのだと思う。

  • シンプル

    日頃行かないような場所に身を置くといろいろ発見してオモシロイ。勝手にアレコレ思い想像する、その「思う」は経験と環境からの一方的な眺めからきていることと感じた。年を重ね偏っていき狭くて一方的になることの恐れも感じた。もっと軽く広く深く思うことが出来るようになったらいいなって思う。朝晩空気中にひんやりとした秋の種が含まれ今年も3/4終盤になってきた・・年始め?何を思い何をしていたのだろう?全く思い出せない笑 年始めの過去もこの暮れの未来も想像できない笑。ツクツクホウシがしっとりと切れ味なく鳴いている、ただ鳴く蝉のようにシンプルに今居よう。デザインのある服、奇抜な服、オモシロイ服、変わった着にくい服、着心地の悪い服、いろいろ沢山着てきたから辿り着いた今の私のセレクト。ニガイ人間関係あったからアッサリしたシンプルなお付き合いがいいと思えるようになる。シンプルになるって大人になっていくことと似ているのかもしれない。体験のなかで傷ついて反省して後悔して複雑な心境をブレンドしすぎたから最終的に自分らしく割り切りシンプルに潔くなっていけるのだろうって思う。分かちあえる共感がベースにあるからシンプルに人間関係が成立していく。あちこちで文章読むのもつらい注意勧告ポスターや社会マナーがわからない幼児向けのようなアナウンスが流れ雑音や粗野な様子が増える、ベースが抜け落ちて無いからシンプル不成立なのだろうなって思ってしまった。

  • リクエスト

    昨日は来年春夏と秋冬物で福岡出張へ。気づかないうちに私はおしゃべりになったのだなぁっと思い返していた。服選びはインスピレーション(シルエット、ステキ、気分上がる、生地など沢山含めてのもの)お客様のリクエストあるもの。商品見るときは一瞬集中して終わり取引先さんへお店側からリクエスト伝えたり世間話に私の疎い業界情報も教えて頂きながら会話している時間が多い。頻繁に会う機会はないからこそ有意義な時間にもなる。リモート使いも段々慣れてきているし、重要視される事ごとにリアル対面とリモートを使い訳ができ始めている気がする。ただ片方からの伝達要素が濃いものはリモートで十分だけど、フラットに一緒に作りあげるなら対面ではないと伝わりにくいし、キャッチボールが交互にできるというのが大前提だと思う。一方通行だと新しい発見も気づきもない気がする。人との関わりはキャッチボール、テニスのラリーが大前提。私もついつい伝えたいことを一気にダム決壊のごとく話してしまうことを気をつけようと思った。それぞれの見えない立場があり、見えない考えもあり、見えない本音もあったりする。本音をポロっと話せるや心の思いを伝えられると真摯に受けとめたい。朝のNHK連続TV「アンパン」は思いや気持ちポロっと正直に話すシーン多いから化粧仕立てが崩れてしまう。いつから現代人は自分の気持ちを正直に言えなくなってしまったのだろう。組織人間関係や社会的立場あったりすると言いたいことも言えないのもあってしまうけど、プライベートな関係なら平らな運動場で相手との距離が遠すぎず近すぎずキャッチボールするのがいい。投げる球の大きさも速さも自分がキャッチできるものから始めてみたり、相手がしっかり向き見てくれてる内に取りにくい球を投げてしまわないように気をつけながら・・。

  • itami

    精神的痛み感じるって社会生活送れば仕方ないこと多々あるし我慢しすぎはよくないし発散方法を見つけるのは大人のたしなみかもしれない。先日、アスファルトの上でこけた。ちょっと急いでいてこけた。。めっちゃ痛く3か所流血何年ぶりだろう・・思い出せない笑 絆創膏下から血が滲む所よりかすり傷にもなってないような所がジンジンずっと痛む。そして、何より大人になってコマ送りみたいな感じで転倒するからコケル衝撃がとっても残る。生活の中でこんな事って滅多にないから教訓になる。痛みや血によって生身の肉体をしみじみ感じ、痛みがあるから気づかされること気づけることが多くある。ピンチはチャンス、逆境が人を育てると近いのだろう。痛みがないに越したことはない。ただ私は痛みあってからアレコレ考えるきっかけになりもがいてもがいて学ぶ。「痛み」の反対語は「快楽」や「喜び」 喜びを感じるには痛み体験がないと感じにくいのかもしれない、真逆から再確認するのが残念ながら私と思う。痛みを教訓でいれたらいいけどつい忘れてしまう私。たまに痛みを思い出し最低最悪からすると本当有難いなって感謝することが増えている。痛みサインなくても忘れちゃいけないと意識している。そして、SNSや日常会話で軽々しい言葉で見た目にわからないような痛みや傷を負わせているようなことが世の中多い。なるべくそういう所からは距離をとろう。アスファルトでこけて超~~痛かった私にはその教訓だなぁと思ってる。

  • 俳句

    先日何気に見ていた俳句のおとなチームVSこどもチームのTV・・俳句に触れることもなかったしほとんど興味なかったけどオモシロイなーって思い興味が持てた。5・7・5の世界この短くシンプルでいて情景や雰囲気や心境や醸し出すこと言葉の表面だけではない奥や深みがあるのを感じれて、感覚やセンスの個性をも表すのだなーーって。その番組で大人のアザトイ表現やテクニックが鼻につくのに対してピュアな視線や感じたものをそのまま表現できる子供たちの才能や無垢の良さを作品で感じた。最近、子供でも大人でもない年頃の方を接客して心地よい思いをする。とても心地よい爽やかな風の様な感じで、透明感というか濁りがない様子が美しかった。まだこれからの途中の様子だから良いのだろう。完成されてない、作り込まれていない、計算されていない、シンプルな様子がよかった。隠しもしない、自分で自分をつくらない感じが眩しかった。緊張したり恥じらいもあって言葉少なでも伝わってくる嬉しさや喜びはいっしょにいても伝わる。社会人になり知らず知らずいつの間にかテクニックを使い、四方八方覆い隠していくしかないのが大人なのかもしれないなっと気づかされた。テクニックって良く言えば経験と知恵の賜物で、反面薄汚れていく警戒や守りの壁なのだと。ある時からテクニックのないシンプルな大人の自分だけの環境を取り戻していく必要があるんだなーーーと思った。社会で身につけた防御の鎧のようなテクニックもいらない、シンプルな付き合いができるかが大切なんだなっと感じた。計算して作りこまなくていい関係、相手の意見を悪く深読みしない関係。俳句のように響き共感できる人同士の感受性の時代に益々なってきているのかもしれない。

    ようやっと 俳句の奥に 気づく吾。w

  • リレー

    夏休みになり帰省をされお立ち寄り頂くお客様にほんと感謝。大都会のビルディング群どこまでも光広がる夜景を1m四方の窓から眺めて思った。想像しきれないぐらい大勢人がいるんだなーーってそして知らない人だらけと思ったら不思議だった。知らない人が住んでいるんだから自分が接する人や目の前の人に丁寧にいればもっと世の中の角がまるみを帯びるような気がしている。丁寧にという表現もちょっとニュアンス違う気がする、尊重?もし立場変わればを想像してみたりふさわしい表現があまり見つからない。節度もってだと硬いけど60年前だったら日常にあったのかもしれない。祖母からそういう雰囲気の事は注意されたような記憶がある。気を張りすぎる、気遣いしすぎもよくないけど気は人と人の間や空間、せっかく同じ空間を共有するなら知らない者同士気持ちよく居れるようなちょっとした工夫はできる。大勢の人が動く時期だからこそ工夫って自分で想像しながら、ちょっとした優しい振る舞いをしてもらったら次は自分の番で真似てやってみながら・・優しいリレーが広まればいい。お盆近く同窓会など久しぶりに会う機会もあるかもしれない、多少の縁あっての再会で優しいリレーがあちこちで広まればいいなと思う。

  • 日本語

    恥ずかしながら本が読めだしたのは独立してお店っを始めてから。出張の間YouTubeや気になる文に目を通していた。しかし、どーーもわたしの頭が日本語に弱いから理解しながらついていけなくてつまずく。笑 同じ?日本語?のはずなのに残念ながら理解できず何度も聞いたり読んだりを繰返す笑。おそらく表現されてることの1/5もキャッチできていないあり様。誰か日本語を教えてほしいなぁ~。辞典で調べても同じ言葉の行ったり来たりでぼんやりで前進することもできないゲームの中にいるようだった・・例えば、認識、意識、意思、思考、概念、情緒、感情なんとなくでやってきていただけに何かちゃんとせずで、前後の流れでこんな感じなのかなーーってぐらい耳で聞きながらの理解になるともっとついていけてない巻き戻しては聞く。辞典のことばの表現も限界があるのかううううむ。。一つの単語のニュアンスの捉える感覚がないからついていけない事をもの凄く感じている。深みが足りないからなのだろうなぁーーーーって。岡潔数学者がいう情緒や小林秀雄の雰囲気、感性ある頭のいい人達をちょっと知りたいと思う憧れからムリがあるのかもしれない。日本人っぽい所を濃く持っていた人達が何を感じていたのだろう?興味があった。国語は全教科中ビリのこの私が50歳目前でやっと今ごろ触れている。笑 遅咲きデビューでも単独の言葉が難解で分からないなりにも雰囲気だけを味わっている・・笑 頭は混乱だけどゆったりとした気分になれる 笑。可笑しいけど全然分かっていないのに楽しい。ちょっと穏やかな時間の流れ何となくほっこり豊かさが感じるその気配、雰囲気に浸るだけでも楽しめるってだけでもいいのかもしれない。お勉強って理解するってことだけが答えじゃないのかも、何かほんのり感じれることがささやかな幸せなのかもしれないって思った。

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