AKO’S Monologue

  • 居心地

    まるで海外にいるような気分で過ごすことができたひととき。何がどうして海外にいるような気分になれたのだろう?って暑い外の喧騒を歩きながら反芻していた・・まぎれもなく日本の都会にあるビルのワンフロア、接客してくださる方も日本人なのだけど何かが違う。目に入るモノ全て日本っぽさが無かったかな・・日本っぽいというのが日常の簡易なもの、チープなプラスチックなどが一切無くだった。ゆーーーったりラグジュアリーにいれて優雅な心地に空間にさせてもらえることと、空間に価値が生まれることを改めて感じた。だから、私は日本っぽさをリセットしたくなり海外に行きたくなるのかもしれない。日本っぽさのいい面&残念な面の両面セットなのに最近は残念な方が濃さを増しつつある社会気配をも感じる。この時期に、空間は作れることを再発見できてほんとよかった。空間の大切さをしみじみしみじみ感じれたひとときだったからグロージェにも取り入れたいところ。’たまに思いっきり背伸びすること、そして時に贅沢だなーーって思う事を存分に味わい満喫する事ってスッゴク大事な経験と気づきのチャンスだとも感じた。日常を非日常にするのも自分次第のスイッチのONOFFもあるけれど、たまには空間の助っ人を利用して空間に身を置くことで満たされ心地良さを堪能することもが何かの切替に役立てることもできるのだと感じた。空間にも自然と人工的な洗練されたラグジュアリーなもの様々ある。それは微細な一つ一つが積み重なっての総合的なもの。グロージェもトータルで空間提供できるようになりたいと思った。まずは私自身のリニューアルと改善&改良が最も優先になるなぁ・・。ニガ笑

  • スマート

    このモノローグが硬めもどうかな?って 人の振り見て我が振り直せ・・笑うようなことがあった。noteでちょっとハマりずっと連続読み耽っていると私の読解力と集中力の無さで途中飽きがきたりした。内容はとても学びになるしオモシロイからハマって読んでいたのだけど、集中力の限界くると一気に面白さが無になる。集中力がほしいところ。だから、たまにはチガウことも書ける視野も大事なんじゃない?って思った。私がおもしろいなーーって思ったのは、大阪御堂筋線は終日女性専用車両が車両の中央部分にあるのをご存知だろうか?私は凄いなーーってつくづく感心してるのは、中央部分に持ってきている事!有難いことに利用させてもらっている。チョクチョク目にする光景はそこに男性が紛れ込んでいる事・・・あちこちほぼすべての面に女性専用車両ステッカーが貼られつり革にも、ご丁寧にちょっと早口アナウンスでも流れている、乗る前のフォームの足元にも大きく書かれている。この人はいったいいつ気づく?って観察していたら2駅ほどで焦って車両変える人もいるしずっ乗車ままの人もいた。その人はずっとスマホ画面を見ていて気付かない様子。2駅乗車オジサンは顔あげてぼんやりどこか見ている様子だけどあちこちのピンクステッカー&つり革も気づかない様子だった。私が言うのもなんだけど女性しか乗っていない車両ってちょっと異様な気配で不思議な光景だったりするのにな・・・って思った。田舎から出て右左わからないからこそいろんな掲示頼りに移動してるからか日常の無意識だと目に入らないんだなーーって、日頃の通勤道建物が無くなって更地になったときに何があったか思い出せないと同じだと思う。男性に言ってあげるのが優しさなのかな?注意勧告にとられても・・迷ったから何もしなかったしできなかった私。言い方や伝え方なんだろうなぁーーーってこういう状況で頭フル回転想像して気の利いた一言が言えるのが本当の大人の振る舞いなのだろうと思った。

  • あいだ

    わたしは以前は人間という字が表すように人と人の間をどう過ごしどう貢献するかというのが人間なのだと思い込んでいた。。ちょっとした勘違いかもしれないなかんじてる。幸せとは感情ではなく、喜び、満足、そして意味(purpose)という3つの要素の組み合わせである。そして、幸せとは 目的地 ではなく「方向性」だと、幸せとは人生の方向性であると ハーバード大学のブルックス教授が言われている。だから、人間の「間」というのは生きてる間の方向性が大切でどこに向くより今より→矢印のような形でいるかが大事なんだと気づいた。学校入卒や肩書や地位はあくまでポイント(点)とても端的でわかりやすい表示だけどその本人の幸せをBEST表現してるとは言えないこと。どの方向性でいるかという最中がとても重要なのだと気づいた。ファッションを通して美意識のある方々に接っしいろんな会話をする機会あり影響と刺激を受けることができている最中。些細な違いに気づき、楽しむもこのしあわせの方向性の最中の一つの表現と思う。目的、目標、結果、成果を求められ判断材料にされるけどそうじゃないことで集うコミュニケーションの時期が訪れはじめている気がする。約束を守る、挨拶をする、日常の些細なその人の意識の表れがその人の形成する要素のような気がしてる。方向性が同じ人達でいると元気も勇気も楽しさも喜びもまた出てくる。そういう意味で環境や人の流れにいっしょに乗るのもいい気がしてる。方向性の先が見えてなくても漠然とした光景だけが浮かぶ人達と一緒にいたい。

  • 流しでカップを洗う時、空から雨が降っていて排水に水が流れてるとき、顔を洗うとき「水に流す」水が流れる様子をジーーーっと見るようになった。ここ最近水に関する本を読んたせいもあると思うし、サハラ砂漠を衛星写真からよーーーく見ると大河の跡があるというのもキッカケだったかもしれない。いつもの梅雨真っただ中ならジメジメしてテンション低、靴が濡れちゃうどの靴履こうと悩み、ワイドパンツの気分なのに~裾濡れちゃうからって急遽スタイリング変更で何かとやっかいの梅雨を過ごしているはずだけど、有難いなーーって感じている。こんなにも身近に水があることを感謝する。正しくいうと【地球上で人間が飲める水はほぼ僅か。具体的には地球全体の水の0.01%しか人間が利用可能な淡水として存在していません。地球上の水は約97.5%が海水であり、残りの2.5%が淡水です。しかし、この淡水の大部分は南極、北極の氷や氷河、深層地下水として存在しており、人間がすぐ利用できる状態ではなありません。この貴重な水資源は世界中で均等に分布している訳ではなく、地域によっては深刻な水不足に悩まされた場所もあります。日本は比較的、水に恵まれてる国ですが、水不足、水質汚染問題は存在し、水は貴重な資源であることを忘れてはいけません。】ネット抜粋より  0.01%どう感じるかと思う。この数字を知ると水の流れる様子をジーーーっとつい眺めてしまうし湯舟に浸かるときも何か変化した。サハラ砂漠はとても美しいある意味、鼻、耳の穴髪の毛もターバンでグルグルに覆っていても髪の奥の頭皮までザラザラ砂まみれになり見渡す荒野を見ると心まで渇き枯れるようにさせてしまうものがあった。何でもALL 全て渇き枯れてしまっては手遅れ元に戻れない。外の雨音を感じながら思う・・・。

  • 水に流す

    スマホの画面に選択肢8項目でどれも選ばないという事で次の手順に進むことができ無事アカウント閉鎖をすることができた。頭の固いわたしはどれか一つは選ばないといけないのだろうっと勝手な思い込みで同じ画面を行ったり戻ったりしながら操作を繰り返していた。なんで?どうして?って思い操作する、徐々にイライラして止めようかと諦めかけたけど、今朝は違った心理的なものがはたらいたのだろうか?選ばないでNEXTの部分をクリックしたら次に進むことができた~操作完了~となった。選択肢があればどれかを選ぶものということが当前のような私の古さを実感した。「選ばないこと」が一つの選択になるという事!!!ホントちっこいどうでもいいような些細なことだったけど私にとっては目から鱗のような大きな出来事でちょっと賢くなったような気がした瞬間でもあった。笑 大げさに表現しているけど、ほんとすごいいいいいって大発見の心地になった。私はどうしても頭固くデッカチでいつの間にか屁理屈多くなっていて、超はげしい思い込み、一つ覚えると一つどこか忘れてると分かっているのにいざとなるとミスしてしまい身近な人々は被害被らせている。癖か・性質か・ある意味どこか何か欠如している・・。完璧じゃない失敗してしまうけどお店ではいつもお客様が寛大に許してもらいながらミスもするけど支えられていてお店を続けれていること本当に感謝している。この時期は誰もが梅雨の湿気と急上昇気温で体の倦怠感が出はじめている、いつも以上に気を引き締めなきゃって意識している。「ゆるす」って愛情や優しさや大人の行為なのだなーーって思った。

  • 朝顔

    TVを視聴しない私が、久しぶりにTVの前に2時間、引き込まれついつい観てしまったMIP流石ハラハラドキドキしながら観るのはおもしろかった。映画から考えさせられることあって映画もたまには気分転換にもなるしいいかなって思った。ふと大学のセミナーの先生が映画は人間のストレス軽減緩和、気分転換調査研究していたのを思い出した。非現実的なこと、映画の登場人物になったり客観的に観る事がいいとかなんとか??出席やレポートがゆるいだけで選択していて何しに大学通い勉強というか学ぶこともせずどう過ごしてたのか不思議でたまらない。ハッキリ言って何も身についておらず学費無駄にさせたなーってうしろめたさから親孝行するのかもしれない。笑   映画中考えさせられたのは友情や愛情、信じること約束を守ること、恐れ、疑い、悲しみ人間っぽいことばかり。信用するって行為の裏目がロマンス詐欺、信用できなくさせる退職代行業、信用できる関係が築けないからハラスメントになり、身近の人が信じられないからネット検索する。今!目の前にあることをもっと注意深く観察すればいろんなことが解決することができるように感じた。些細な変化、微妙な違いに気づくこと!!だから理科の時間に朝顔を育てていたのではないだろうか?ってふと思った 笑。一学期夏休み前から朝顔の種を植えてそれから毎日水やり毎日変化のないようにかんじながらも観察させられたものだった・・今思えば育てること、お世話すること、変化に気づくことの訓練だったのかもしれないなぁって思う。無言の植物を育てるといろんなことが感じられるようになるんじゃないかな?植物を育てたり、周りの自然の様子に気がとまる人はもしかしたらコミュニケーション下手じゃないはず。人が言うというで信じる、優しく甘い言葉、耳障りの良い言葉、話し方のテクニックよりシンプルに・・言葉数少なくても伝わるものはあると思う、一緒にいて言葉がなくても成り立つ心地いい雰囲気もある。コミュニケーションって何を言われるか(受け身)より私だったら誰に話すか(自発)を気をつけるし誰が言っているか(どんな人)しっかり見極める事(観察)が重要かもしれない。

  • 芸術

    ゆっくり一旦停止したら信号も青に切り替わった自然と・・やってみたいなぁってことがいくつか思い浮かんだ。その一つにアート(芸術)に関わるキッカケほしいなって思い、せっかくならギャラリーとして3Fレンタルするのもいいかもしれないと想像する。芸術っていうとちょっと敷居高いけど触れる機会があるって大切なような気がしてる。昔、岡本太郎の作品よくわからなかったもっと言うと怖かった・・きっと凄まじいエネルギーと激しい原色使いの勢いにビビったのだろう、笑っていないまるで怒りにも一瞬とれる表情もあるからだと思う。十分大人になっていつだったか岡本太郎のエッセイや本に触れると作品の見え方がすっかり変わった。不思議と可愛く見えたり原色も鋭さよりも柔らかさをも感じれるようになった。見え方が変わればずいぶんと様変わりするものだなーーって。ずっと太陽の塔・・薄気味悪い(ごめんなさい)って思ってたけど、今はあの表現は究極のム(無)と思う、見る側の当人の心情が出るように作られているのだろう。検索すると万博って1851年ロンドン最初は自国の技術や工業製品を世界に披露し文化交流の場とすることだったようで、その後産業の発展や国際協力の促進そして、地球規模の課題解決に貢献する場へと変遷したようだ。万博イベント自体も時代の流れで変わっていったようにように自分が変わっていくと周りも変わっていく。どうして本を読むの?って私はたぶん自分にはない思考や筆者のあり方に触れたいから読むのだと思う。本になる時、それまでのリアル体験と様々な思いと経験が一冊にまとまり言葉になるからどこか響く気がする。だから、私はどんな人が書いたものかはいつも気にする。こうやって書かせてもらい読んでくださる方々に私がどんな人間か恥ずかしいけれどこれも私の一部、すこしは変化したのだろうか・・笑

  • ゆっくり

    東京出張先で書いてるこのアコのひとりごと。環境を変えると以前はワクワクが多く刺激を求めていた。ようやく私も大人の仲間入りできてきたのか笑 場所を変え空間を変えてスイッチオフしてゆっくりと過ごし味わうことができるようになってきた。何かしなきゃ勿体無い!せっかくだから!って思いも芽吹きそうになるけど、特にやりたい事も見つからずぼんやりするって脳にいいらしいことを聞き、空を眺めたりしていて、かっこよくいうと非生産性の今を楽しむ=ゆっくりゆっくり贅沢な時間を過ごす。つい最近まで急ぎ速足で早食いの私が、何もしない事が悪い事のようでなんなら生きてる意味ないような解釈でいたけど、早いだけがイイ訳じゃないとつくづく感じている。以前のアパレル業界も先取り早く早くという時代もあった、今はマイペースで自身の体型も気分、気候にあったモノがその時のベストだと思っている。惑われない振り回されないって凄く凛とした大人らしい振る舞いで、流行も大人の余裕(遊び心)で自分らしく少し取り入れるのも大人のスタイルに感じる。先日筋トレで超ゆっくりゆーっくり動かす種目で僅かな回数で即筋肉がプルプル痙攣した笑。動いてる?止まってる?かの地味なわずかな微かな動き。後々大きく影響してくるんだなぁって感じた。地味ってその地点を味わう事全てを感じることなんだろうな〜。

  • T

    私はお洋服着るっておもしろい楽しいなって思ってもらえるキッカケになったらいいな~+加えるなら、自分を好きに大事にしてもらいたい。元々ネガティブでネクラで反骨精神だけでどうにかやっていた10,20代。今、学生や世代違う人がどんなことを思い過ごしてるのだろうか?ファッションの楽しさ着るおもしろさ知ってもらえたらいいなって思う。夏といえばTシャツ・・Tシャツ選びも、形、デザイン、色、サイズ、袖の長さ、首の開き、生地の薄さ厚さ、素材、涼しさざまざまな選び方がある。いろんな選び方と選ばれ方があるから接客の際も楽しい。同じように見え似ていてもまったく別物がいい!一期一会の巡り合いでしっくり似合うのも楽しく、好みだけど似合ってないと感じるような事もあったり~、本当は着たいけどちょっと照れたり恥ずかしさも見え隠れする心境もあったりする。憧れや理想を求めつつも今の生自分を受け入れるところもあったりする。白Tシャツとジーンズの王道スタイル。似合うってその人らしさとマッチすること、シンプルな着こなしも素敵に感じるのも 服×人の相性。片思いみたいに気になったお洋服を条件のみで諦めることはしないでいいと思う。骨格診断や色判断よりはまずは試着してみよう、骨格と肌以外の他パーツとの相性もとても重要だったりする。昔、美味しんぼって究極の料理対決を親子でする漫画があった、食材や調理方法など細かなこだわりと手間と工夫がそれぞれの回で紹介される。料理を一切しない 果物×器 というだけの究極の料理の回が確かあった・・インパクト大でよく覚えてる。Tシャツも「果物と器」みたいなものでシンプルに最大限引き立たせ合う究極のオシャレの様にも感じる 着る人×Tシャツ の相性と思う。洗練されるって無駄をそぎ落とすことであり、デザインあるもの、お洋服をどんどん着て沢山の経験を足していく頃もあれば段々と引いていく頃もあったりする。お料理といっしょで隠し味が必要だったりアクセント効かせるときもあって全て計算!シンプルはその加減で足し引き、洗練された様子って同じ感性同士しか響き合えない無言のコンタクト。シンプルな物ほどしっかり選んでほしい。

  • 大阪

    展示会で大阪にも以前より出かけることが増えた。関西弁やノリが正直ニガテだったけれど私のオバチャン世代になったからか・・段々へーきになってきた。笑 東京や福岡にはない大阪独特雰囲気だなーーっとつくづく思う。ちょうど新大阪駅では万博の関係で朝早い時間は外国人が多く空気や匂いが空港の国際ターミナルのような印象がした。電車に乗れば全身色んな柄でコーディネイトしているオバチャンもいらしてその方の感性でオシャレを楽しむ様子もいいねっ!!って思えたし、THE喫茶店というような老舗という肩肘張らない、庶民に馴染み優しく寄り添うような雰囲気のお店が多くどこに入ろうか迷うぐらいあった。こだわりのコーヒーや作り方も変わらない食べたいなぁーーって思わせる魅力的なサンドイッチやミックスジュースのメニューを眺めた。ファッションも喫茶店も自己流で、我が道をいく!マイペースなところがホントいいなぁって思えた。時代に流されないブレない感じが凄く良かった。そして、媚びない芯その勇気(本人は自分がイイならイイヤンっって)いうスタンスも、勇気と捉える小心者のわたしがいて、つい周囲を意識している自分や右往左往するのをちょっと恥ずかしく思った。自分がいいと思って提供している手を抜かない喫茶店のスタイルがステキだった。私もイイと思って仕入れているのは変わらない。だけど、頑固になるのとポリシーは違う。全身柄をオシャレ楽しんでることに共感してもそのコーディネイトは私自身しないし提供に取り入れない。ただアリだと思う!!ファッションって本人次第で自由でヨシ何なら興味ないのもヨシでいい、ただ目からの情報として薄っすら表層化するのも事実だったりする。自分をつくるってことの一つに服もある。自分自身が自己プロヂュースし続けるのが生活なのだと思う。どんなことも自己プロヂュースの意識があれば感情的な振る舞い言動も自制が効きそう。ワンクッション持てるかどうかワンクッションある人はいつも身の回りにエアバッグを装備できてるような生活を送れるんじゃないかと思う。

  • AU

    タイトルからだとスマホの話題でもするのかな・・って思われるかもしれないけれど、実際に会うということの大切さをつくづく感じた今朝。先日NHKのあさイチという番組で活動が取り上げられた「ソロ活」スタッフでほぼ毎日やり取りをしている、私は正直いるかいないかで様子見なところが多く申し訳ないぐらい。日常にlineあるけど会うのは久しぶりだった。「会う」事の大事さをしみじみ感じた。どうしても文面だと自分の先入観や固定された思考で受け取り感じてしまうから、文面だと少しずつズレてしまうものだ・・。冗談で言ったものがドーーーーんとシリアスになってしまったこともあり反省したときもあった。日頃会話している仲のグループでは普通のことでなんだ問題にもならないようなこともそうじゃなく小石のつまづくようなことになってしまうもこともある・・当たり前ってことは世の中にはほぼないということの実感⇒有り難い。相手を意を汲めるのはやっぱり会ってすべてから感じ取らなきゃねって、zoomやリモートでも直に合わなきゃだと気づき始めている人も多くなってきた。何でもそうじゃないかな~人にしても物にしても場所にしてもその空気(見えないもの)含めたすべてだ。雰囲気っていうのも・・気配っていうのも・・。昔、飲食店を経営する方が一流の俳優は気配を消すことができると言っていた。きっとプライベートをしっかり分けていらっしゃる方なのかもしれない。気配ってある程度コントロールできるものでもあるのだろう、ただ素敵さや美しさには気づいてしまうもの。ワザとらしくあざとく放つものではなくてほんのり漂う・・その微かなっていうのがその人らしいところになるのかもしれない。微かなっていう何かが通じ合えるから人は親しくも慣れたり共感もできたり歩み寄れたりするのかもしれない。

  • アナログ

    私はスマホ活用していないと思う。仲良しの友達のように探求心旺盛でドンドン深ーーく奥へ行動していけるタイプが羨ましい、興味あるからドンドン調べ進めていけるのだと思う。私の好奇心そそるツボは少ないけどあるにはある。。その時だけはひたすら探したり知ろうとしてある程度いくといつのまにか熱冷め平熱になっている。昨日展示会でいつもの担当じゃない方々と話す機会あった。いつもは挨拶程度・・オモシロイもので共通の趣味やお洋服のことで話は盛り上がり意外な一面を知る。会話はお互いの印象をガラッと変える瞬間でもある。イメージや印象だけでいる事はホントもったいない。言葉やコミュニケーションってイイも悪いも両面持ち合わせてる。だから、言葉を注意したり、綴ること、口に出す際に意識が必要。ある方が“ 「A.Iも言葉もなんでも・・道具が悪いのではなく使う人の知性が問われる、・・・それがもっと感じられるようになり、そして、使用者の知性、品性、倫理観であったり美意識であるはず・・・」というブログを目にした。私も同感だな・・、使う人の方が意識していることがそのまま現れるような気がしている。見た目よりも中が見えてくる時代のような気がしている。道具の使い方、物を大事にする、約束を守る、アナログだったころの大事だった要素が出てくる気がしている。お気に入りのポップな色のボールペンの芯をやっと手に入れ、入れ替える、外見そのままだけど中は新しい。そんな私でいたいいな・・笑

  • FU・・

    展示会行ってほとんどフィーリングでセレクトしている。感覚と計算の(バランス)も大事。感覚だけで暴走してもよくない、少し先を見て少し前を見ての計算も大事だったりするしちょっと振り返ることも大切。だから、今に集中できるし今を丁寧にできるようになる気がする。何でも生活全般にも身の回りに通じるものの様な気がしている。学生時代の私は先が見れなかった、あまりに自分がイヤすぎてお先マックラな時期もあったし、だからといって過去に振り返って後ろ向きでいるタイプでもなかった。前も後ろもしっかりよく見ないと今をどうしたいかが生まれないような気がする。未来をみて今を、過去をみて今を!!見方が変われば今はすぐ変わるというのが腑に落ちたところ。私は成長も進歩もゆっくりめのところトロイ、どんくさい)があったから、すぐに合わないやめるの選択はしなかった点はよかった。最初からおもしろい楽しいって思えることってほとんどない。其れよりもできないシックハックで失敗を恐れたり怖かったり、緊張したり、ドキドキしたりスムーズにできないが当たり前というのを忘れていると思う。できない自分自身が許せないのか恥ずかしいのかイヤなのか、失敗が怖いのかいろいろあって私は全部だった。最初から完璧にできる人は天才と思えば気がラクだ。天才ってそこら中にいるわけじゃないって思えば怯える必要もない。段々上達していく、その段々も一段が低い人もいれば一段が高い人もいる。私は瞬発力がない変わりにかひとつをコツコツコツコツ続けることはできた方だった。自分のないとある(長所も短所も)両方知れたら計算はしやすい。両方を知ることができたらとても気楽におれる。最近はどっちかの片方のタイプが多いかもしれない。。もう少し両方から見える事ができるようになったら暖かい眼差しも増えるような気がする。最近、新しいことにチャレンジしたり始めたりしている大人の方がいらっしゃる、ゼロからのスタートする勇気ってなんか素敵だなって思う。教えてもらい、助けてもらう、サポートしてもらう、人から頂いてばかりで世の中はできてる。私も循環社会のなかで何かパーツとしてできることはないだろうか・・なにもできないゼロからの経験して新たな自分を発掘してみようかなって気になってる。笑 わからないできない自分もあればあちこちのハラスメントはこんなに増えなかったと思う。

  • FU

    腑に落ちるって・・ストンといったイメージ、すんなり入るような一所懸命理解しようを超えたところ(アタマだけじゃない)ことを体験した。自分と向き合ったり内観するのに瞑想や方法などは沢山あるけど、結局 我(どこか作りこんだり、作り込まれたものが自分の意識となっているように勘違いしまったりする)それがあると自分を知りたいけど本当の自分とは出会えず難しくややこしくなってしまうと思う。自分の殻を破る=自分を見つめることは「えぐる」痛みがあるけど、それを確認するとってもラクになるもの。~こうでなくちゃっ、~でなければ、~あるべき、など自分で決めつけ枠や限界を作ってしまうとそれでがんじがらめになってしまう。お洋服やファッションは、~あるべき、~なければっていうのは全くないと思っていて、その人がどういたいか?!どうしたいか?!本人の意思がとっても大切だと思ってる。だから、着る本人の意思を尊重したいし価値観になってるものが薄っすら気配に漂ってくる。物が高価とかチープとか価格や金銭的なものじゃなくて、なぜそれを選んでいるのか・・・っていう本人の気持ちが大切だったりする。「着たい」「いい」「素敵」の感覚は自分自身をよく知ることであって、日頃から自分を観察しているところからスタートだとも思う。自分で似合う服がよくわからない・・と仰る方も思いはあるからそのリクエストを恥ずかしがらず伝えてみるといい。気候、気温も気分も変われば着たいものも変わってくるのは自然な。私の服選び好きとイイの直感だけでいつもバイイングしている。だから早い。笑

  • 環境

    いつ頃からか・・不器用だから人に頼れるようになってきた。。素直に相手の意見や考えを聞く耳をもつこともできるようになってきた。30代はどこか・・だれかわからないなにかと張り合い競い、欠点を隠して弱みはスキで、弱さは甘えのように捉えていたような所があった気がする。完璧な人はいないし、張り合うでもなく、優劣や競争だけが社会でも人間関係でもない気がしてる。環境で温もりに触れ、柔らかい感性や大目に見てくださる方がいるお陰で今の私が居れるように感じている。環境に知らず知らずとても影響をうけるもの。環境の大半を占めるのが人間関係じゃないかなって思う。何気なく使い発する言葉、日常の話すほんの些細な話題、口調やトーンにスピードも込み込みで環境になっているのだろうなぁって思う。私も大学のバスケ合宿が2週間続き、やっと休みで親友と遊べる時にどうしたの?なんか荒々しいよ?ってふと言われた言葉で我に返る思いをしたことがある。競争し肉体精神的ハードな合宿ですさんでいっていたのだろう。。その環境にどっぷりいるとそれが当たり前になって全く気付かないでいてしまう。ふと冷静にさせてくれた親友に感謝だった。それからはそこに染まりたくなかったし染まらないようにした。環境というのは選べるし、親しくさせてもらう人も選べるのがいいところで距離をとることも身を守ること自分次第。自由だから理想や自分がどうありたいかがとても大事になってくるんじゃないかなって思う。環境からイイところはドンドン吸収できるしいい影響も沢山空気感染できる。だから、環境が人を育てるというのだろう。そこにいる本人の意思次第でずいぶん様変わりする。

  • 下・・・

    いつからか美意識が表面的なもの陳腐なものになってきたように、美しさと洗練されるって私は最近表裏一体だと思う。輝く一流のデザイナーは美学がありセンスのイイ言葉を使い、より美しいものへの探求しつづけている。日々洗練されている、それはセンスがいいから洗練され続けるのか、洗練されるからセンスがより良くなるのかわからない。最初からある天性もあるかもしれないけど後付けもいっぱいあると思う。センスは終わりなくずっと磨き続けられると思っている。茶道や書道や剣道も「~道」というものはそういうモノだと思う。道は、コツコツ自分を磨き続ける事だから道と表現されるらしい。ごもっとも~~~!!これから、女性がただファッションでオシャレを楽しみながらセンスを磨き、洗練されるという事にもフォーカスあて上を目指したいなっ、いけたらいいなって思っている今日この頃。なぜ私がこう思うようになったかは、オシャレするってなんだろう?美しいってなんだろう?センスいいってなんだろう?洗練されてるってどういうことなんだろう?上品ってどこで感じるんだろう?って思考するとパーツじゃなくて全域のトータル上っ面だけの問題じゃないし服だけのことでもない。内面のものが多くをしめるんだなぁってつくづく感じる。センスのいい人は経験も豊富で言葉のチョイスもセンスが見事。センスよくいるのも近道はないなって思う。すべて経過なのだ、その経過も今の一つ一つの丁寧さの積み重ねなのだと感じている。だから、最近はセッカチ早食いの私が箸お皿を丁寧に持ち、倍の時間かけてよく噛んで食べている。笑

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