AKO’S Monologue

  • ラグジュアリー・・

    デザインの一切ないシンプルな物ほどラグジュアリーがくっきりハッキリ出てしまう。私は家具を時間あれば観に行くかな~椅子やテーブルほどラグジュアリーが出るもので、基本的な作りは同じバランスだけだから作者は巨匠と言われる域に達するのだろうしシンプルさの素晴らしさに見惚れてしまう。笑 一番わかりやすいトレーナーにしろスェットパンツにスニーカーに鞄もラグジュアリーがよーーーーく見えてしまうもの。シンプルな物ほど見えるか見えないかの細部にまで手が掛かっているから洗練さにつながる。つい見惚れてしまうのはその細部何かが漂っている~花の香のように~、その色香のわかるもの同士で通用する何かなのだと思う。その微かな香りを嗅ぎ分けるのも自分お洋服部門ではなく人間性や人柄をもトータルで洗練させていかなきゃなぁと思う。オシャレとラグジュアリーは少し重なるぐらいでラグジュアリーとセンスはそれよりも多く重なりあう所があるように思う。判りやすいラグジュアリーブランド物を身につけているからオシャレ、センスがいいことに直結しないようにその方に馴染むことが最大の良好なんじゃないかなって、人あって物が生かされる!!あくまでも主人公は着る本人かと~。本人がステキならより魅力も増し相乗効果。辛さがあるから嬉しさがあり、悲しみがあるから喜びがあり、難しさがあるから楽しさがある、厳しさがあるから優しさになるいろいろな心境でストーリーがある人が着るからラグジュアリーになる様な気がする。大人だからこそラグジュアリーな着こなしになるように思う。

  • ラグジュアリー

    目をひくって・・見惚れる、醸し出す雰囲気やオーラって何か見えないを感じるかだと思う。解りやすくいうと「クワイエット ラグジュアリー」(静かなラグジュアリー)⇒ラグジュアリーとゴージャスは似てるけど違う、ずいぶん前私にゴージャスよね??と表現されたことがあり、今思えばそれ以来私は静かなラグジュアリーを目指してきたような気がする。「ラグジュアリー」ググっると2,3意味あるが・・・内面的な価値(高品質や素材、職人の手仕事、ブランドの歴史、ストーリー性単なる高価さではなく、そこに込められた価値を重視する)(本質的な価値、非日常性、文化や美学)新しく解釈を発見した。素材品質サービスの本質的な高い価値を持つこと!それが目を引くの中にあるように思う。表層的がお得意の今だからこそ、本質的なものをどれだけ各々が求めるかもしれない。AIか本物の人間か?、フェイクニュースなのか事実のニュース?身近な人間関係さえ見分け、本質に触れる経験をなるべく意識していかなきゃいつのまにか全て仮想の中で人間らしい自分自身をとり戻せないような気がする。人間らしいは喜怒哀楽や感情より「感じている」と思う。文化と美学もラグジュアリーに含まれていて身につける服や小物が高価な物でも本人の文化的素養や美学が大きく影響するかなって・・。その人の思考や素養がにじみ出てくるのも装いだと思っている、だから静かなるラグジュアリーが大事かなっと思う。明治生まれの祖父の服が高価なものだったかは知らないが、幼いながらに厳しいけど優しい思い出がある。きっと祖父からオーラとして醸し出される何かがあったのだろう、言動や動作ひとつに・・ジェントルマンは服よりその方の本質的なものが出てくるように今から女性もそういう時を迎えるって思う。

  • ネジ

    あの当時女性が進学大学に行くのが稀だった。結婚し出産してからも働き続けるのも難しかったとお客様との会話で耳にする。食料や物が無かった時は食べ物や物が手に入りやすくなることが豊かさだった。今は過剰なほど食べ物や物が溢れすぎている。外国に行く度こんなに物があふれているのは日本の異常性質と思う。細かく種類いっぱいあるスーパーマーケットは楽しいと外国人は話していた。こんな中、沢山種類あるのに私にとってのベストなものが見つからず不満足でいるのも現代病で贅沢病なのかもしれない。豊かさをどう気づき捉え感じれるかたまに自問する。インフラ整い大量生産物質多めで育った世代は曖昧さ素朴さのアナログを求め、想像遥かに超えるとても贅沢な高価な経験にポーンとお金をだしたり、オリジナリティの唯一の古着にハマっている人がいると聞く。当たり前の程度の差が年代ごとにあるのが今。幸せは本人の感じ方次第だと誰かが言っていた。自分自身の幸せも年齢と共に変化したように社会の豊さが何なのか想像するときのような気がする。そう思えば私の昭和後半の感覚やインパクト経験は古びたもので仕方ない。扱いきれないほどの多くの機能ある家電製品にスマホを全域機能熟知している若い世代と製品開発者からは社会の歯車からは錆びついたネジなのだろう。この多機能が便利から不自由さになってきている私はシンプルなものが欲しい。多くよりも少数精鋭がいい、複雑はややこしくさせる元凶だ、風通りのいい空間はいつも気持ちよく過ごせるようにシンプルであるほど研ぎ澄まされ洗練されたものになると私は思ってる。豊かさは多種類多機能だけでなくもっと気づけないほど極められたシンプルなものだと思っている。気づく人感じる人同士の共感の輪のネジでいよう。

  • 整・・

    女性としても人柄も魅力ある先生と習う事以外でも沢山吸収させてもらいながら刺激や影響も含め笑いある楽しい時間共有が、私の整う事になるんだな~って思った。整う事はリセットしたり、窓の喚起のような頭や心の喚起をすることなのだろう。バスケの恩師が優秀な人ほど切り替えが早いと言われていたのをふと思い出す。優秀が何をさしてなのか?プレーヤーなのか、頭脳の賢さなのか、人間なのか当時はピンとこなかったけど今はなんとなくわかる。ダラダラ~ながらはないし超人的な集中力を持ち、遊ぶときは遊びメリハリもって過ごす、時間の使い方がとても上手いなぁって感じるし時間の流れ方があるように思う。整理整頓がその人の内側で起きているのだろう。整理整頓が環境だけでなく頭の中でも感情の面でも時間の流れる速度も・・・、自分をちょっとコントロールすることでもあるのだろう。コントロールするとなると完璧にするということじゃなく自分を操縦しながらいるに近いと思う。速いがいい訳ではないし、すぐがいい訳でもない、簡単がいい訳でもない、便利だけがいい訳でもない、楽がいい訳でもない。自分のペースで整えながら進むのがベストだと思う。生活のいろんな部分を自分で整えながらいれば色んなところが整い始めていくのだろう。

  • 整えるって身近になかったからこそ急接近。ドラマ「ミステリーに勿かれ」は好きでその主人公が整クン笑 厳しく鋭い物言いもあれば優しさもあったり、観察や気づきの参考にもなるから面白くてつい母といっしょに見入ってしまう。笑 見たからってすぐ身に付くものでもないんだけど楽しみつつ。毎度駆け込み寺のようにお久しぶりの着付けレッスンに行った。忘れてスッポリ抜け落ちた所もあり要点とコツを分かりやすく例え上手く表現してもらいつつ着付けたので驚くほどスムーズに着ることができた。間違えやすい部分を道しるべのように先導しながら教えてくださるからだった。コツの中に整えながら~というポイントが幾度とあった。違う箇所に意識が飛んで持っていかれそうになるけど、丁寧に着実に意味あっての動きに集中するだけで全然もたつかないものに仕上がったのだった。無駄な動きをするのも注意力散漫になって後戻りしてしまうからだった。先生に「着慣れは何度も着るとコツもつかめるし自然と身に付いてくるから」・・・アレ? 逆の立場で聞いたフレーズだった笑。 何度もすることが身に付くという事そういうことだなぁ~。特別なことじゃなく毎日の小さな行いの連続だ。小さな行い一つ一つはそんなにエネルギーも時間も努力という字にもならないほどのもの。初歩の初歩はハードル高い気がして勇気がいるものでも、だからできない=0を分かっていれば1ずつカウントしていくだけのこと。私の着付けもお茶稽古もカウント進行している気配さえないぐらいのものなのに、穏やかにわかりやすく要点何度も教えてくださる先生方あってのこと。苦手にもキライにもならず、プレッシャーにもならずマイペースにさせて下さる先生方にホント感謝だ。 

  • リアル

    自分に色付けするように自分はこんなに人間なんだと思えばそれはそれでラクなのかもしれない・・・。例えば骨格診断や色診断してしまうのも自分に似合うモノが欲しい知りたいからなのかもしれないし基軸になるベースがあると選びやすくなるからなのかもしれない。そこに自分の憧れや希望や理想はどこへ?やってみたい恰好やすきはどこ?似合うモノが欲しい、ステキになりたいしそう在りたいはリアルに服を着てみないとはっきり言ってわからないもの。いくら診断聞いても沢山服を見てもあまり意味がなく体験こそだと私は思う。着こなしや雰囲気は服を着てきた体験からにじみ出る「出汁」みたいなもの。難しいが無いて無難はトライもチャレンジもないからその人らしさや雰囲気や似合うに素敵に反映されない。意外なことから発見できる、通常や今までのパターンからは決して生まれないのが気づき。気づきや発見は知恵や成長のキッカケやセンスアップと思う。やって体験して感じないと発見じゃない。AIにどっちが似合う色のドレスか質問するCMを見て、全てAIに気づきと発見と感覚を奪われている・譲っている様子を見てゾッとする。服って正直、本人の意思(好み)と購入前の「選ぶ」ってところが醍醐味!!試着して感覚が動いて発見するのが着るという楽しさ、嬉しさ面白さと思う。わたしはお洋服を試着して明るく嬉しそうな様子のお客さんが好きだ。選べなくて迷ってちょっと悩む様子もいいなぁって思う。選ぶ行為が肝心じゃないかなと思っている。AIに正解風の答えやアドバイス求めて何がオモシロイんだろう? お洋服着る事に関心がどんどん薄れている今に危機を感じている。べつにお洋服だけの事じゃないどんなことでも始めは興味持てなくても楽しくなくてオモシロくない、段々とやっていくうちに自分の嬉しさや楽しみを見出して探していくことが生活の行為なんじゃないかなって思う。すぐに答えを見つけるには人生は長すぎる。スマホに奪われ言いなりの意思のない・・ただ何となくの陰のような人間になる前に・・感覚を磨いていなきゃ生身の人間っぽいリアルを生きていけない。

  • I am

    柔軟に対応するって・・・その時に合わせてだとちょっと手遅れになることもある。先手、早めが言い訳ではないけど自分のヴィジョンどうしたい=主導権あるうちが大切。誰もが主人公の自分を作ることができること・・自分を探すのではなく自分を創っていけること・・とても響いてる言葉だ。こんな人間だと自身で思い込むこと、自己勝手な解釈を改めてやめたいと思っている。多くのお客様がいろんなことにチャレンジ&トライインプットしている様子に触れると凄いなぁっとただただ尊敬するばかり。ムリ・できないと思うのも私で、やってみようとトライするのも私。最初から完璧に近い状態でできている人は誰一人いない。人は、自分でアクセルとブレーキの両方持っている存在と思う。私は使い訳ができているかというと・・どちらかというとブレーキがよくきく方カナ~笑だから身軽に感覚も敏感で想像力豊かでいたいと願いつついる。周りの人の言葉や環境が勇気のアクセル、慎重さのブレーキ、見直すニュートラル、元気のパワーチャージになって気づかせてくれる。自分の「ムリなくなんなくできること」は人から才能や特徴やその人らしさになっている。自分のことは自分で知り気づくことはできたないもの。接客しながら憧れや理想やコンプレックスや照れくささ、ちょっと恥ずかしさいろいろあるもの、お洋服選びに限らず、働くこと人付き合いも含め行動全域に複雑な心境でいるのが人間と思う。だから、今の自分に素直で今までの経験値パターンとつい思考クセでいる私に余白をつくり一新するのもありかなって思っている。柔軟性は私が先に変身、私の方から変わればいい余白の広さなのかなって・・・自分に色付けせず、何色でもいい余白を創ろうって今いる。

  • 循環

    最近響いたワードの循環。今日も小雨が降る、水も地球を巡り循環している。全て巡っている。循環を意識する事、しっかり見つめてみる。長らくアパレルに携わっていて水面下でいろんな事が起きている。お店のオリジナル商品を作ることでいろんな事を教えてもらいながら知りながら学ぶ機会を頂く。お洋服はほんと多くの過程があり生地製作の背景その前は色付け糸づくり、ボタンやファスナースナップの付属品、用途別の縫製工場さんの現場をお会いすることはないけど現状様子を聴く。今ドンドン高齢化が進み、人出が減り、職人さんがいらっしゃらなくなっている。0ゼロから1を作れる人やそこに最も近い人が減っている農業もアパレルも違いはない。生産性ある現場にいる人が弱い社会はどうなのだろう?って思う。資本主義社会で資本力が最強なのは仕方ない、ただ0⇒1にいる人や携わる人が循環の始まりを作ってくれていることがスッポリ抜けてしまっている気がする。母の幼少期は布選び採寸服を縫い作ってもらっていたから既製品が珍しかったという・・。商店街には魚屋さん八百屋さん靴屋さん傘屋さんカバン屋さんがあって歩いた私の幼い頃。魚屋さんの自家製てんぷらをおやつに買ってもらうのが美味しくて楽しみだった。身近くの小さな循環。生活は人と接することでストレスや煩わしさを生む反面充実感や心を感じることもある。温もりある循環に身をおいたら殺伐したもの切なさは感じにくくなる。ただ物質の物という見方しかできないことはとても寂しいように思う。技術という目に見えない人の技を!縫う織る技術、機械やミシンを使って人が作っている技も服に宿っている。いつもお世話になっているお直しやさんも魔法のように仕上げてくれる~どこを直したのかわからないほど美しく丁寧に~。いつの間にか蒸発して消えた水を惜しむようになる前に・・・大切に身近な循環を意識して味わっていたい。

  • 靴下

    季節を感じるアイテムとして靴の足元でお洋服の印象に欠かせない重要なものも靴・足元。日本のことばに「足元がすくわれる」が間違った表現で「足がすくわれる」が正しいそうだ。私も今回知る笑 足元の肝心さがわかるなかでその付属でポイントになるのがソックス・・・よく着こなしで相談されるアイテムの一つだったりもする。私個人は素足が好みではかないことが多く、靴や季節によっては靴下をはくぐらい。靴下をどんな時でもはかなきゃ落ち着かないという方もいたり靴を汚したくないという方もいたり靴下をよく履き替えるという方もいたり個人の生活スタイルに様々あるようだ。重ね着の秋冬はインナーを着たりコートを羽織ったりサンダルから靴下をはいて靴やブーツになり足元が変わっていく。季節感を出すのはここ最近の気候ではお洋服よりも細部のアイテムのように思う。見えるか見えないかの靴下の色使い、茶目ッ気チラリとして私の好きなアイテムの一つでセンスが光るところだとも思ってる。無難でいい・無難がいいと思ってしまいがちだけど、靴下が悪目立ちしてしまう意外な落とし穴が潜むことにちょっと用心してほしい。小学生の頃にスカートのひざ下から見える異様に濃かったり大根のように白っぽいストッキングに違和感を子供ながら思っていたのを鮮明に記憶する、最近はほとんど見かけなくなったけど・・・笑、ナチュラル=自然という事がとても大事だと思う。不自然というのはやっぱりオカシイ。振る舞いにしても言葉にしてもファッションにしても不自然というのは違和感のもとだ。振る舞いにしても相手を慮る、気遣いや配慮、言葉にしても言い方ひとつ言葉選び、ファッションにしても清潔感やたしなみや慎み。下心はいらない。。。

  • 突如

    突如やってきた・・・冬の寒さ。先日も東京出張で真冬を先に体験して一気にヤマグチも寒くなった・・もっというなら20日分の日めくりカレンダーをすっ飛ばしてしまったかのような日。急いで衣替えでニットやコート真冬物を出した。気づいたのはここ4,5年買ったお洋服の傾向と気分が今の私と違う所。ライトグレー&淡いベージュにしばらく凝っていた私が、まるで他人のお洋服を眺めてるように冷めてしまっていた。あれほど大好きでお気に入りでテンションも上げてくれたパワーアイテム達だったのにちょっと様子がオカシイ・・。ホンワカ・・ほっこりの様子が好みだったがどうも4,5年前とちょっとガラッと変化が起きているみたいだ。カッチリした格好のしたい気分になっているようで黒が着たい気分になっている・・笑 具体的原因が何かはわからないけれど・・想像つくのはパリミラノニューヨークコレクションを見ている機会が多く感化されているのもあるだろうし、夏日に焼けて・・・黒髪になったという事もあるだろう。コレクションにはデザイナーの考えとブランドの伝統と考えや社会へのメッセージも含まれ創り表現されているファッション達、私はとても深みがあるところがとても好きだ。人それぞれ服を着る事は全く違う価値観で意味を持つ持たないも様々だ。だけど、こっそりとその方を表わすの身につけている物だと思う。日本全国的にお洋服好きな人が減っている傾向だと話題にあがる。とても残念で悲しいことだなって個人的には思う。私はブランドや高価なものがいいと言いたい訳じゃなくて、服を着て嬉しさや楽しさや喜びがあることを知ってほしいなぁって思う。コンプレックスだった私自身が服を着る楽しさを知ってちょっと変化したものがあるのは事実だから。。。

  • 50

    あと半年で50になる私。お客さんは知人に半ば強引にゴルフ誘われて50ぐらいで始めたのよ~と仰っていた(今はゴルフある生活を楽しく過ごされていらっしゃる)、子育てひと段落した母も45ぐらいでパートに出ている(専業主婦だった私が仕事に出ていろんな他人と接することで社会を学ぶことができてよかった・・とつぶやいていた)。年上の自営の友人もまったく違う職種に飛び入りゼロからスタートし試験に通り新しい技術取得とライフスタイルですごくキラキラして充実している。年齢関係なく実動する身近から学ぶ、そして興味あるなしも関係なくキッカケはどんなだったにしても、ニガイこともあっただろうけどひたむきに取り組んで今があるのだなぁと思った。結果や今にしか目に止まらない環境だからスグ・早くを求めてしまう。急勾配で上がるものはその同じ角度で落ちるとトレーダーの知人が話した言葉が印象的に残っている。長い時間かけてじわじわ上がったものはすぐには落ちない。。焦る必要まったくない一旦止まる事や区切るは大事だ。今どんな所を歩んでいるのか周りの景色を眺めるときがあってもいい気がする。未来に怖じ気づいてしまわず、始めることにビビらず、今をめんどくさがらずいたい。コレは私がわたしに言いたいこと。ココシャネルは50からの顔はあなたの功績。50歳以降の自分の顔に責任持つことは日々の生き方や心の在り方を反映した結果だと・・。「責任」の輪郭を失わせ対人関係で薄くなりすぎてしまったこと。自分自身の気持ちを裏切らず手を抜かずいたい。

  • 秋気配少ないまま10月半ば迎えてる・・そろそろ来週あたり寒くなるとか・・、秋晴れと裏腹になんとなく気分冴えない日が2、3日あった。原因はコレといった具体的なことはないんだけど、おそらく些細なことが雪だるま式に大きくなっていって私を覆っていったのだろうと思う。落ち込むことは無いようにしてきた私もいつの間にかのまれていた。こうやって俯瞰して思えるのも身近なの事のお陰だったひとつは友人との会話やラインのやり取り、通勤途中の掲示板の「希望はある」の一言ポスター、朝お店前を掃除していると枯れ葉が渦巻きながら風に舞う様を見たとき・・だった。もともと掃除は好きな家事だからすすんでできるほうで散らかっているのがただ嫌なのだろうけど、枯れ葉集めつつ掃いているとひゅ~~~るるるの風に笑ってしまった。ただ自分がしているからしているだけのことでしょう~って思った。誰かに言われたからでも誰かに認められたいからでもなく、シンプルにただ自分がしているだけの事。どんなことも生活全般にいえることなのではないかなぁって思った。褒めてもらいたいから感謝されたいから自分を必要とされたいから認めてもらいたいと言葉する若い人が多いと耳にする(別の形をした依存だと思うし~の為とか)どこか自分を人にすがりながら行動すると苦しくなるんじゃないのかなぁって思う。若者と違い年長者にはこちら側の勝手な思いや捉え方をして批判や悲観的になってしまいがち・・私も私の勝手な自己暗示の狭い思い込みになってしまっていた。大人になればすべて自分が自分でしていること、他人のせいに親のせいに環境のせいにしていた方が自分を変えずに済むから楽なのかもしれない。。あざ笑うかいたずらするような軽やかさの風をいつも思い出ししたいなって思った。悪意のない明るいいたずら心にお茶目っ気っていつまでも持っていたい。

  • 私が思うオシャレっていろいろ表現できて「こだわり」「好き」「気分いい」「気持ちいい」「きれい」「リラックス」「無理しない」「ガンバらない」「感じがいい」「清潔」全て感覚っぽいところの集約が服なんだろうなって思ってる。だから、骨格や色を診断しただけで服を選び着るって勿体ない気がしてる。一つのパターンにあてはまるはずもなく一辺倒の理屈だけじゃないと思っている。私の接客はトータル頭の先から足、指先の全身が醸し出す全体の雰囲気を大切にしていてその方の好みや理想ももっと大事にしてる。最近は全身使ったパズルのような遊びに似てるなっと感じてる、自分自身が作品とでもいったらいいのかもしれない。ただ着る事をこうやってウンチク言ってる時点で煩わしくメンドクサく思われるかな・・笑 機能と美の共存 建築物、器にしても身近だとフラワーアレンジメントだったり料理の味でもあったりするんじゃないかとも思う。正解はひとつじゃなくて、お洋服は今のベストコーディネイトや今のお気に入りアイテム、今の気分で変わってくるもので常に変化するもの。食べ物だって旬があるようにお花にも開花時季があるように。楽しむことはオシャレも同じなんじゃないかなって思う。アピールするためより自分がどういたいかなんじゃないかなって思う。周囲の目やどうしても環境やシーンに制約は装いでるけど、自分の今を大事に過ごす方法のひとつでもあると思う。新しいものばかり目を追うより今持っているアイテムとあれこれ合わせながらバージョンアップしながらもいいし、お家探検もいい。流行りを追うより本人の気分や感覚を大事にした方がとってもいい。感じることが多いから洗練もされていく。感じることってその人の生きてきたところの歩みだとも思う・・五感活用の表れ。。。だから、好奇心もって何か感じるってとっても大事なんじゃないかなぁって思う。自分の感覚をもっと大事にしてほしいなぁ、それって自分を大事にしている事だとも思う。

  • なにか人に伝えたり、交流はフィーリングが近いとスムーズにいきやすくなる。そのフィーリングは価値観や振る舞い些細なちょっとしたニュアンスなのだと思う。出張の原宿渋谷界隈を歩くと異国観たっぷり~~笑 日本人のほぼいない場所があちこちあって日本人?韓国人中国人台湾人?服装ヘアーメイク振る舞い観察しつつ道を歩いて、もうさっぱり分からない私のアンテナ。異国観たっぷりを皮肉にすると日本人をほとんど感じにくいから。日本らしさってなんだろう?特色っ?想像すると具体的にはよくわからない。今、読む本や学んでいる事からも環境の大事さともにその影響が強いと、どんな人とどんな環境で・・言葉遣いが思考へ、思考が行動へ、行動かパターン習慣へ、習慣が生活全般に色濃くでてくる。どんな環境に身を置きたいかって希望はとっても肝心!今さらながらの今だから!と改めて思う。キッカケを作ってくれるのは人から、ヒントも気づきも周りからだと思う。有難いことに年上の方からは生き方や前向きな明るい在り方、年下の方には今の感覚や話題を教えてもらう。会話には多くのヒントが潜んでいる。日本人って儚さの美が心の根っこにあるらしい。お茶でいう詫び寂びもその流れ。一期一会もその一つかな~っと想像する。都会生活で繊細でいたら憔悴してミイラのようにゲッソリすぐなっちゃうだろうから、大都会は図太さが必要になってくるのだろう。大勢の人の中だと圧倒されてしまう私もようやく少し変われた。いいなぁって羨ましくて凄いなぁーー卑屈や見栄を張っていたころの私もいたけど、今は隠すより無知や弱さを素直に認めているからありのままでいる。周りに素直にいると環境が優しく感じられるようになってくる、勝ち負けも上下もない自然と穏やかな環境がやってくる気がしている。

  • 豊か

    青さ引き立つ秋空で空気も澄んできて気持ちいいのに世間は対照的な様子が漂っている。そんな時だから何を思い笑顔でいるか想像してみる・・やっぱり自分次第の工夫次第のような気がしている。例えば、白さ目立つ髪が多くなり視界にチラッっと入る白い髪にぞぉっとしつつ年齢をヒシヒシ感じ溜息出ていた、今はちゃんと年齢をいつも気にしている訳ではないけどオバチャンゾーンを謙虚に受け止め自覚できている。笑 だから、肩の力も抜けて無理もせずジタバタもせず、少しスローに少し余裕が持てるようになってきた気もする。いい意味で気負いを自分に暗示かけず自分自身を過大過小もせずそのまま受け入れることで上でも下でもない視線で見れて変化してきた。多くの方のリアルな生き方や在り方(悩み、思い、照れくささや綺麗、美しさ、面白さ、個性)を感じ過ごせている有難い。嬉しさも悲しさも楽しさも辛さの感覚感情があるのが大切なのだと思う。誰の言った言葉か忘れてしまったけど、楽しさがずーーーーーっと続いていたらそれが普通になり楽しさも忘れあたり前になってしまう。苦の刺激って本当にない方がいいのかな? 苦痛は進歩するキッカケ、そこから多く学びと成長の伸びしろがあることがある。苦みの分甘みも感じられる。片一方だけの感覚だけでは成立しない。若と老。暗と明。若い時には無かったもの気づけなかったものが今ある気がしている。そして、両方を超え俯瞰したところに禅の無になるのかなぁと思う。ただ美しい、綺麗だけは存在しない。美しい綺麗と感じた側の感じとるセンス。やさしさ、思いやり親切も感じとった側のセンス次第、私はやっぱり全域センスのいい人になりたいなぁ。センスのいい言葉、センスのいい振る舞い、センスのいい人にお金あるないは関係ないお金でセンスは買えない、お金でセンスを磨く体験はいっぱいできることは事実、センスのいい生き方はお金の使い方もセンスがいいように思う、メリハリがあることも豊かな人のような気がする。痛さ、苦しさ、厳しさがあるってとても大事なことだと思う。だから、若い時は買ってでも苦労をしろって流石先人の智恵!!

  • ソロフェス

    以前も書いたことあるけど、私は本読めなかった・・。もっと言えばもっと早く本知っていたら人生違ったといえるし、遠回りしなかったところもあるかもしれない。笑 今の生育より笑 倍速で成長していたのでは?と思える・・先人や偉人、ずっと伝えられている智恵に触れられる本と出会っていれば、ひねくれてた思春期や何故進学するの?って疑問・・ちょっと前向きに明るく過ごせたかもしれない気もする。やっぱり無知は罪だ。被害妄想してしまうのも自分の考えに固執したりその固執にも気づけない。いろんな本に触れて共感もできたり嫌悪したり涙したりする。完読して登山のような山頂の景色のような本もあれば、後味残る食べ物のような本、スラスラ相性いい本や世界の広がる本もる、何度トライしても読めない本もあるのも事実。本も服のようなところがあるなぁって思った。本にも流行りはすごくあるし、有名ブランドのように話題の有名作者がいたりして似ている。人の環境にある人間の作るモノってみんな形は違えどソックリだ。世界の文学をしっかり沁みこめてない私がこう書いているのも筋違いなのだけど、ちょっとのぞき見興味・好奇心もってもらえると楽しいかなってジョジョに変化始まる気がしてる。大人だからちょうどいいタイミングかもしれない。LINEアプリにAI機能がついた時代、便利より人間の楽しみや人間らしさを奪われてしまうかもしれない。話を聞くおもしろさと楽しさと同じで本も似ているようなところがとてもある。話すことで人を感じられる、一言の「ありがとう」があるから人は寂しくない。もっと広く、もっと深く、ちょっと明るくなれるといいなぁーー。

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