AKO’S Monologue

  • 環境

    いつ頃からか・・不器用だから人に頼れるようになってきた。。素直に相手の意見や考えを聞く耳をもつこともできるようになってきた。30代はどこか・・だれかわからないなにかと張り合い競い、欠点を隠して弱みはスキで、弱さは甘えのように捉えていたような所があった気がする。完璧な人はいないし、張り合うでもなく、優劣や競争だけが社会でも人間関係でもない気がしてる。環境で温もりに触れ、柔らかい感性や大目に見てくださる方がいるお陰で今の私が居れるように感じている。環境に知らず知らずとても影響をうけるもの。環境の大半を占めるのが人間関係じゃないかなって思う。何気なく使い発する言葉、日常の話すほんの些細な話題、口調やトーンにスピードも込み込みで環境になっているのだろうなぁって思う。私も大学のバスケ合宿が2週間続き、やっと休みで親友と遊べる時にどうしたの?なんか荒々しいよ?ってふと言われた言葉で我に返る思いをしたことがある。競争し肉体精神的ハードな合宿ですさんでいっていたのだろう。。その環境にどっぷりいるとそれが当たり前になって全く気付かないでいてしまう。ふと冷静にさせてくれた親友に感謝だった。それからはそこに染まりたくなかったし染まらないようにした。環境というのは選べるし、親しくさせてもらう人も選べるのがいいところで距離をとることも身を守ること自分次第。自由だから理想や自分がどうありたいかがとても大事になってくるんじゃないかなって思う。環境からイイところはドンドン吸収できるしいい影響も沢山空気感染できる。だから、環境が人を育てるというのだろう。そこにいる本人の意思次第でずいぶん様変わりする。

  • 下・・・

    いつからか美意識が表面的なもの陳腐なものになってきたように、美しさと洗練されるって私は最近表裏一体だと思う。輝く一流のデザイナーは美学がありセンスのイイ言葉を使い、より美しいものへの探求しつづけている。日々洗練されている、それはセンスがいいから洗練され続けるのか、洗練されるからセンスがより良くなるのかわからない。最初からある天性もあるかもしれないけど後付けもいっぱいあると思う。センスは終わりなくずっと磨き続けられると思っている。茶道や書道や剣道も「~道」というものはそういうモノだと思う。道は、コツコツ自分を磨き続ける事だから道と表現されるらしい。ごもっとも~~~!!これから、女性がただファッションでオシャレを楽しみながらセンスを磨き、洗練されるという事にもフォーカスあて上を目指したいなっ、いけたらいいなって思っている今日この頃。なぜ私がこう思うようになったかは、オシャレするってなんだろう?美しいってなんだろう?センスいいってなんだろう?洗練されてるってどういうことなんだろう?上品ってどこで感じるんだろう?って思考するとパーツじゃなくて全域のトータル上っ面だけの問題じゃないし服だけのことでもない。内面のものが多くをしめるんだなぁってつくづく感じる。センスのいい人は経験も豊富で言葉のチョイスもセンスが見事。センスよくいるのも近道はないなって思う。すべて経過なのだ、その経過も今の一つ一つの丁寧さの積み重ねなのだと感じている。だから、最近はセッカチ早食いの私が箸お皿を丁寧に持ち、倍の時間かけてよく噛んで食べている。笑

  • 下・・

    下準備といえば!料理だってそうだし種から育てた野菜、木が花を咲かせ実り収穫する果実も見えてない経過があっての最後の最後こと。経過があるその間育つ。タイムパフォーマンスをいつから言いはじめたのだろうっ?省くことで大切な何かを忘れてきたように思う。結果ばかり追い求め、近道、簡単、楽ちん、便利は今の日本語解釈と数十年前とでもずいぶん変わった。不自由さの便利とは今は内容が違う。めんどくさがりの私がこう書いてるのも妙だけど・・笑 めんどくさがりやでも手抜きはしない。めんどくさがりと不得意もちょっと違うように思う。日本語の言葉の水面下がごっちゃになっているのが目立たない問題の気がしてしょうがない。例えば「優しい」の捉え方も使い方も意味も多様になりすぎ、同じ意味ニュアンスで捉えられる人同士が自然とつながっていけるような今の社会になっている。語彙力の差がアメリカのデーターに所得の差にハッキリ出ているそうだ。語彙力は無くても言い回しや表現に気をつけるなり、言葉を慎むなり、発するを少し控える事で世の中はずいぶん過ごしやすくなるように思う。うかつな発言をしている人ほど、他人や周りのせいにしてすべてを台無しにしている元凶が自分の発する言葉に気づいてない人が多い。対照的にお互いに「ごめんなさい」「ありがとう」と心地よく過ごせている人だって沢山いることもある。ウソも信憑性判断できないA.I.がご立派な言葉を並べた文章を作っても、自分の思いや気持ちに寄り添ってくれる人には決して敵わないと思う。ファッションやオシャレというビジュアル環境にいるからこそ表面の安易な判断は危険だ。表面の下(見えない部分)人間同士のつながりが大事になっていくように思う。見た目だけじゃない深層まで美しいって決して終わりはない。美意識ってそういうものに使うんじゃないかなって。

  • 最近もまだ肌寒く感じるようなことがある4月末・・、この陽気びっくりしているのは人間だけではないはず、植物たちもだろう。無理に薄着する必要は全くなくこの時期に巷ではインフルエンザが流行っていて学級閉鎖しているそうで気をつけたいところ・・。初めて茶道に使う「湿めし灰」作り方を教わりながらお手伝いさせてもらった。手間の多いこと・・・・面倒くさがりの私には茶道は全て精進の元かもしれない・・、表に現れない下準備や裏方への感謝する思いのキッカケになる心が持てることばかり。お作法お道具何一つとっても意味があることしかない。無駄はない動き洗練されている。目に見える事は氷山の一角でその水面下がとても肝心&重要だなぁーと感じる。思いを汲む力がつきたいが気づく力のキッカケもこうした脇の脇のような影のような存在の湿めし灰(火の付きでお湯の湧きあがりに影響する、湿った灰を炭の周りに撒くことで火起こりをより引き起こすのが湿った灰)ただの水で湿らせる訳でもなく焙じ茶の熱湯をかけては天日干しの工程を何日も繰り返して仕上がるモノ作り。湿りすぎも出来わるくカビの元になったりするそうだ、乾きすぎも良くなく出来栄えは熟練したところの加減の判断。出来上がってしまえば良し悪しつけられてしまうものが今の人間社会。結果だけの評価、見える所だけの判断ばかり。見えるところがペラペラのハリボテ。価格や写真に騙されているのかな?って疑う力、疑問に思う不思議に思う力も必要だと思う。本質的な見方を学ばさせてもらっているのが茶道のような気がしている。今思えば気の遠くなるような手間ばかり、たった100年も前は蛇口からすぐ飲み水が出る事もなく、車がある電気がつくわけでもない。布巾ひとつも貴重で甘いものも贅沢な品。幸を思うって時代も変わればというところだ・・・。

  • 新緑

    葉をつけながらも咲きつづく花のあるマーブルな桜の木に、鮮やかなピンクに埋めつくされるツツジが咲き、柔らかい緑色の葉の山に爽やかな薫風と合う山ではもう藤が咲いている。フルーツミックスジュースみたいになっているこの季節。お店前を掃きながらいつもとチガウ私を感じている・・春にひとつ年が加算される私が・・。常緑樹のトネリコが黄色く散っている様子を掃除しながら今年はなんだか・・はかなげに感じている。気持ちいい季節で例年なら新緑に気を取られているところなのに、役目を終え次にゆずる黄色い葉に目が留まってしまう。巡ることを意識しはじめているこの頃の私、かわったなぁーーーっわたし自身がっそう思う。笑 ある意味、穏やかに物事をほんのすこしだけ眺められるようになってきたのかもしれない。今までだったら、掃除しながら次にこれをしてとあれはしておかなきゃねって次々に頭でつぶやきながらしていた・・。段取りといえばカッコいいかもしれないけど今をちょっと感じれるようになったかもしれない・・些細な・・小さなことを。森を見て木を見ず、木を見て森を見ず 正解はどっち?じゃなくただ偏らないようにいることをみることを心がけていての変化。少し広く 少し大きく 少し距離をとって 少し熱を下げて 少し他人目線 少し自分の気持ちから離れて 少し先をみて 少し顕微鏡のごとく極d極細分化して 少し批評家みないなところをやめる すぐ答えない 少し間をとる すこしすこしで変わりゆくものがいっぱい感じられるようになった。自分をアップデートの仕方って 少しの少しの意識なんだなあーーーって思えたら 自分を使っての実験がとても楽しくオモシロイ。自分が変わるって一番おもしろい遊びのような気がしてる。

  • カコ

    私はほとんど振り返らないようにしてる。お店の仕入れでいつも次のシーズンを先の季節を観ているからかもしれない、母の覆水盆に返らずと小さい頃言われていつも今と次回と育ったからかもしれない。セカセカを卒業したくてプライベートでスケジュール帳持たなくなって10年以上経っていて、様々な予定をいっぱい詰めなくなった。旅先も一つの予定いれるか入れないかぐらいでゆっくりベースを心がけている。カコと今を比べられないけど、ずいぶん私も変化しているように思う。先日5年前、私が考え構想したもの改めて目を通した際、当時の私にバッタリ出会った。自分でこんなことを考えていたんだぁーー、へーーって他人事のような不思議な感覚だった。一度ポシャッタことをもう一度トライするかチャレンジするか迷う・・年齢なのか小心なのかわからず、勇気も行動力も減ったことと鈍い私を知る。こういう時どうしてか頭に浮かぶフレーズは、宮崎監督の「紅の豚」の主人公の「飛ばない豚はただの豚だ」が渋い声で頭にコダマする。当時の思いや希望あったことすっかり忘れていた私、封印していたかのように。。よがりと未熟さと悔しくて泣くほど身に染みた事だけに戸惑う。時代も変わり私も変わった。カコをただ引っ張りだし繰り返すことはしたくない、もっと・もう少し・・なにかいい方法や案が発想できないかな??+にも-にも変わっている私がカコの私と今の私が競っている。同じことを繰り返すわけにはいかず再びチャレンジするってことは1回目のチャレンジする時より高い高い壁がある。失敗の恐れはないけどどうすればいいかな~~~?久々に頭をフルフル回転させている4月。春の気候や気温のように行ったり戻ったり一進一退の4月。笑

  • 進・・

    以前にも話題にだしてるけど、私は食アレルギーではないが食べれないものが多く偏食。母のお腹にいたときから私を知るおじさんに超超強引に口に入れた。先に妹が毒味のようにして数々質問して様子を伺ってから渋々渋々食べた。笑 私は味ともかく見た目で食べられないもあって想像つかない物は全く食べられない。細かく言えばキリがないほど。今回この口にした瞬間一歩の進化を感じた。チャレンジしたこと体験したこと我ながらとっても満足。よくできましたならぬ よく食べましたって心の中で思ったぐらい笑 お店で接客の際にお客様の柔軟でファッションを楽しんでる雰囲気や真剣に」選ばれてる様子がとても好き。苦手や必要ないもの、着ないものはは無理に取り入れなくていいと思ってるけど、着てみよう!!のカルーーークてソフトな感覚が凄くいいなーーって固定してないところ受け入れる余裕感。新緑の自然を感じる今の季節と感覚がリンクして新しさを求めて新鮮な感覚、新しい雰囲気のコーディネイトで居たくて来店される。そんな気持ちで服を着られてるのだなぁっ人の内を感じてる。近道はなくて羽毛の毛ひとつのような軽くて柔らかい変化が進歩なのかもしれない。わたしの進歩なんて笑えちゃうぐらいだけど家族中が驚いたぐらいの出来事だった。笑 私からすると赤ちゃんが寝返りしたぐらいの事だった。。。

  • コロナ発生からリセットされ変わったなぁと感じるのに、人と人のつながりの変化。つながりの内側。ただの物、SNS、インスタ、映像、文字、lineのスタンプから、生になっている。ある学者が「 情報はつながり 」表現されていた。情報のほとんどがゴミだ、人間がフィクションを好み真実はほんの僅かで痛みを伴う、A.I.が悪いだけでもなく、人間同士の信頼の醸成がより大事だと締め括り話されていた。(一部抜粋)人それぞれ感じ反応も別別。例えば、食べ物のリアクション美味しい美味しくないも様々で感性が伴う。お店でプレゼント選びにご一緒する際も、プレゼントのお相手が日頃どんな様子?どんな好み?アレコレ尋ねて少しでも喜ばれるよう想像する。プレゼントする側が思い描く想像力大切だったりする。全国にお店オンラインショップあるけど日常私の履くサイズはほぼない、だから探すのをやめた。私は無いのがきっかけでお店を始めている。最近お洋服迷い子を耳にする。そういう方はとても熱心でオンラインの骨格やカラー診断をしている・・私は診断したところでリアルの自分に似合ったりしっくりくる服が見つかるようになるはずがない。なぜなら、お洋服は一点一点違うものだから。似ているけど別物で少しずつ違う細部、そして本人の好みとフィーリングが入る。条件や理性で恋愛はできないのと似ているかな~。年頃でタイプや好みが変わったり、つい惹かれちゃうタイプみたいなもの・・いわゆるフェチ・クセみたいなもの。新しい気づきを発見するのには試着という情報収集がいるかもしれない。生身な冒険が大事だったりする。頭の理屈よりも生に触れてみる機会ってスッゴク大事なように思う。まずはそこからがイッポ

  • 主役

    「若づくり」と「若く見える」のコーディネイトは全く別物。前の方は着用している本人に似合ってなくて違和感がある感じ。若く見えるというのは自然体に感じるムリがなく本人に馴染んでる事だったりする。だから接客の際、その方のキャラクターや雰囲気が大事だったりする、持っているアイテムや本人の理想の雰囲気や好みはもっと尊重している、たまに似合うなぁーーがあればリクエストプッシュすることも稀にある。服装で一つでも浮いているアイテムがあるのは違和感を作るきっかけ・・・馴染みシックリする事がワードローブでは超大事だったりする。つい手に取るという事もとてもKEY。今の気分のお気に入りであったりすることもあるだろうし、合わせやすく着やすいのも大切。ファッション迷子の方は大半そういうアイテムが無かったりする、シックリ馴染んでないことも多いから何を着ても違和感にしかない。私自身の服選びもずいぶん変わり変遷した。年齢とともにって年齢を気にしてではなくて、私の思考の変化が大きく影響してるなぁって振り返って感じる。アイテムとして好きだけどちょっと恥ずかしくてもう着れない服もある。一生ものというフレーズはもう今は無くて、その当時ときめいた私がいたのは事実。失敗したとは思わない。ひとつの出会いでそれをバンバン着ていたこともあるし、どこかかっこつけていた時もあって数えるぐらいしか着てないものもある。。笑 40になる前ぐらいからかっこつけすぎずで居られるようになった。50になったらどんな服を着るのだろう、きっと心動くときめくモノを着ているのだろうなぁーーー自分のこだわりで。笑 「若く見える」は、その人らしさと服がマッチしているときで着ている人が嬉しそうなときなんだと思う。服は着る人のアイテム、主役は着る本人次第の気分が表れちゃうんだと思う。

  • 一度体験したことは焦ることはずいぶん減る。車のカギが全く反応しなくて鉄の塊となった車。車のフォルム好きでも機能やエンジンは何も知らない。動かない車の対処を初めて経験したときはパニくったけど、2回目はチョット余裕~動かないものは動かないトしょうがないと仕方ないって判断速い。私の普段はしょっちゅう焦る・・突然、予想外にとても弱いと思う。だから、そんな時に冷静沈着に物事思考するタイプや感情的にならず淡々といれる人がとても羨ましくて憧れる。どうしたらなれるのだろう?って想像してしまう私のないものねだり。元アスリートの女性がいつも冷静で一番いい判断と選択ができたら途中ダメだったとしても結果良ければいいのが試合だと語っていた。見た目じゃわからない芯の魅力感じるフレーズだった。多くの試合経験が内側の要素に凄く詰まっているんだろうなぁとも感じられた。嬉しい楽しいの真逆の体験が次の判断と選択のきっかけになって、次の行動になるのだなーっと、何も表面に現れない内面の動きからの次、経験で人の幅も深みも大きさの人格になっていく・・楽しさになる前にきっとスランプや思い描くようにスムーズにいかないときがある体験があって楽しさや冷静さに変化するんだと思う。編集処理された画面よりライブが大切なのをつくづく思うこの頃。もう桜がちらほら咲き始めのこの寒さは2月下旬の山口の気候だそう、桜もジワジワゆるく花開いていくから長く楽しめるのかもしれない。速い・早いだけじゃないかもしれない・・、2年目の桜の若木が1メートルもなく幹も枝のような細さで直径3センチあるかないかぐらいでビックリした。いつも見かける桜の木はいったい樹齢何歳なのだろう?桜馬場通の真っ黒の太い幹の桜はいったいいつからソコで咲いてるのだろう?

  • 情報

    情報化社会 そんな言葉がありました・・今はどうなのだろう?知識あっても生活に活かすことできなければ、そんなに知識も情報も大量にいらないように思ってしまう私の生活。先日Googlemapで土地勘のない場所をドライブするとビックリするような山道を通されてめっちゃ焦った。車の痕跡も轍もなく、枯れ葉も積り苔の生えた道この道が合ってるのかどうかさえドキドキ不安で途中引き返したくても前に進むしかできない細い道。 ハラハラでこういうスリリングはメンタルにくる。対向車がこないことを願いながら目的地付近にどうにか着いた。行ってみたい&どんなところって好奇心でドライブするとこんなことになる。スマホですぐ検索できて情報得ることはカンタン。そこまでの道のりがどんなものかは無い。何もかも便利になっていて直ぐ直ぐ結果や目的や結論入手できるけど、やってみる実験をしないと形のないものを習得はできない気がした。私はたま~に山に登る。独りで登る勇気もないし、登り始めたらワクワクの楽しみから一瞬やるんじゃなかったと戻りたくなる心境になって、頂上までたどりつくのかの不信感と不安の怖さになり、それからっもう!進もう!って気になり、無言で一歩一歩ひたすら登りつづける無我で・感情・だから過酷な山登りが修業だったのだろうなって感じる。私自身のメンタル試され弱さを知る。スマホから得たもので知っているような勘違いより、実体験の実験から自分の内面を知ることできて、自分をカン違いしなくてすむように思う、ピントのずれた大人でいたくないなぁって思う。

  • 名刺・・

    勘違いしてほしくないのは、オシャレとか高価とか流行とかそういう単なるお洋服やカバンや靴の物質だけが身につける本人より前にでてる広告のような時代じゃなくなっているなぁってこと・・。その方のほんの一部、スタイル、人物像にお洋服がマッチしてその見えない全部含まれてること。吟味して選ぶとか、大切にする思いとか、流行に流されず好きや、その人の気配がでることが服を着ることだと思う。服に自分を合わせるのではなく、主役は自分で服を選んでいるかが重要「っぽい」「しっくりする」っていうのがとても大事。ファストファッションもその人っぽさ、~らしさに加わるならそれもいいと思う。私みたいに規格サイズ大幅にはみ出しているタイプはちんちくりんで着られない、サイズあったとしても着心地しっくりしない違和感あるならやめておく。ムリに服に合わせて妥協してもすぐに愛着なくなるというか最初から愛着がない・・・。結局、中途半端は中途半端のまま。。違和感も2タイプあって新しくての違和感と何かシックリこないの違和感。新しすぎての違和感を取り入れるのも本人次第でいい、気分や気になるや着てみたいの感覚を大事にしてほしいし、買っても着ないなら買うタイミングでも挑戦のタイミングでもない。お洋服は難しいものでも無理するものでもなく自分自身を楽しむ行為の一つ。服を着るって人間っぽい行為でオシャレするって自己満足の自己の癒し方だと思ってる。A.I.と共存の今、情報量A.I.には敵わないけど、服を着る楽しさやトキメキや面白さやキラキラする感覚はA.I.には理解できないし共有はできないと思う。その楽しさを知ってる人と人の間の共感と思う。これからは一方的じゃなく相思に共感するときなのかも・・。。

  • 名刺

    ここ数年・・思えば長いこと名刺を作ってこなかった。肩書など気にしない名刺を持たない憧れるカッコイイ大人たちと多く出会っていたのが理由の一つ。いわゆる肩書なくても通用する方、何なら世間に向けてアピールする必要ない方、多くのお役を持って名刺に収まらない方だったり。それまでの経歴で培われた行動と言動で人柄への信頼が厚いからなのだろう。そういう方は名乗る必要がないほどの凄い人々、そうなれたらなーーって保育園児が大学院生に憧れていたような・・笑 私には理想が高すぎた・・ということで、この度4代目名刺を作ることにした。先日2代目名刺を大事に持って再訪して下さったメーカーの営業マンさん、有難くもあり懐かしくもあった。その名刺を作った当時の私はお店を初めてまだ数年目という事や30代前半で力みまくりでガジガジだったように懐かしく思う。今思えばかっこつけすぎのファッションしてるような名刺だ。毎年の年末年始のご挨拶カードでお世話になっているハンバーグの田嶋くんにあれこれリクエストしながら今回の名刺もお願いした。グロージェを客観的に見ることできるけど毎度私の要望を叶えてくれてる。去年秋作られたベースを改良してもらい、新らしくスタートする気持ちで名刺を作ることにした。具体的に変化することはないただ、私の中でリセットしてバージョンアップする思いで願望も含めてのことだった。ずっとお洋服を通してお客様と関わってこれた分、福を着る がテーマ!!服が福になるように。。洒落っ気も自分を楽しむ、生活を彩ったり・パワーアイテムだったり自らを大事に心地よく居れることでもあったりと思うから・・。リアル社会で服をどう着て過ごすかが、これからはアイコンやアンテナのようなものになっていくんじゃないかと思う。何も語らなくても服も含めたオーラ!?雰囲気というのだろうか。。

  • リスケ・・

    丁寧を感じられるひとときは癒されるんだなぁって・・まるでパサパサの髪をトリートメントするような感じ。丁寧っていうのは決して業務的で表層的なものじゃなくて、優しさや思いやりや気遣いみたいなハートのようなホンワカあったかいものなんだと思った。あからさまなパフォーマンスや表現じゃなくて言葉でもなくても浸透するように伝わってくるおもてなしして頂いた。店主のこだわり、ちょっとした配慮があちこちにあったから浸透したのだと思う。丁寧って言葉を調べてみると昔、中国の軍隊では注意や警告を促すために「丁寧」という金属製の打楽器から転じて、細かなところまで心が行き届く 意で一致するようになったらしい。同義語(細心、念入り、丹念)調べてあったけどどうも私には未だピンとこない。おそらくこの同義語が縁遠いからで大雑把の対義語の丁寧で苦戦してるからだと思う。お茶稽古続けているのも大雑把の修正で丁寧を身につける為でもあったりする。自分の理想や憧れには相当道のりは長くいつになったら・・いくつになっても・・なのだろう。ただやっぱりあきらめたくないし、少しでも憧れや理想像にちょっとでもなりたい。理想像や憧れは人と比べての目標じゃなくてシンプル素直な気持ちで人のいいとこを見習う(素敵な人から吸収する)。無意識にいると根っこの大雑把が直ぐに露わ・・根っこは変わらない、意識していればいつの間に身につく可能性を信じて。ステキにいたい、キレイで居たい、美しくいたいは作れると思ってる。

  • リスケ

    リスケと言われて、わたしはリクエストスケジュールかと思いきや~スケジュールを改めてつくり直すことだった。笑 ビジネス用語にあまりにも疎く・・お恥ずかしい。最先端用語もわからないことだらけ周りから教わること多い、だからと言って使わないというか使えない。大阪&東京出張先でお取引先さんと食事しながらいいひととき過ごすことができた。アポイントを取った際、「お茶か食事でも~と思っました」から再度スケジュール変更しての返答「リスケありがとうごさいます」私としてはお忙しい時にお時間とっていただけるこちらこそ感謝でご一緒に食事しましょう!!とリクエストした方なので、リクエストスケジュール!?って勝手に思ってしまったのだった。どうしてもこちらの都合でお誘いしてしまっては申し訳ない気になり遠慮がちに、ちょっとしたフレーズ言葉で流れが良い方へ変わりこころ遣いを感じる。おまかせで予約してくださったお店は一品一品とても丁寧に創られ盛り付けお皿もほんわか漂うもので優しい気持ちになるね~~と話した。提供のタイミングも心地よくて会話も弾みオシャレやファッションや経営や感覚っぽいところまで話題はずっとずっと広がり盛り上がった、お互い明日もあるので終わり時間決めていたので アッサリとまたっ!!と別れた。時間は大切に過ごすことはメリハリもって今に集中することで、相手への気持ちや思いやりで掛け算になるんだなっと感じた。時間を自分への労りや癒すときがあって、誰とどこでの相乗効果もあるんだなって居心地いいって!!。ステキなお料理をじっくり味わいながら印象残るささやかなひと時だった。人の丁寧って(心配り)人を癒すパワーあるんだね~~。

  • ENGI

    今日は一年で最強の縁起の良い日らしい。あまり意識しない方もいるはずで一人で色々決め事すると縁起いい日を目安にすることもある。笑 頼りきる、気にしすぎることはないけれど頭の隅に置くようになったかな・・。イイこともあれば悪いこともあるで 水戸黄門のテーマソング「人生ラクありゃ苦もあるさ~~~」って感じでどちらかの片方だけという事はないと思う。。私自身の経験で体力的にもメンタルにも苦しい負荷がかかると似たような次回の体験はカルーーーク捉えられるようになるんだなぁーーって実感してる。苦しさも年齢や状況や環境でも受け止め方が変化してくるから・・苦しさや辛さは自らの未来の栄養になるのだなぁと思える。楽(ラク)は落とし穴で墜落のようにも思える。ラクしたい(落したい)って字にしてみたら、楽ばかりを求めなくなるんじゃないかなって思う。笑 縁起も「縁あることが起こる」にはなにもしなかったら ×ゼロ で今日のパワーも活用できないように思えたりする。動くと何かが動くはず・・。明日から大阪&東京出張で動くから何か新しい発見も起きたり、取引先さんお誘いして幅広く交流もできたりする有難い。どんな方をお誘いするにしても勇気がいる、なにか始めるにしても勇気がいる、そんなときにこちら側の気持ちが大切だと思うし中途半端なアクションほど中途半端な結末。。中途半端になるぐらいなら何もしないでいる方がいいと思う。其れこそ試験なんてお試しの経験で人生がすべて決まるなんてことはない。そのキッカケから本人がどうするかそれ次第!!志望大学入試を落ちたことでそんなに社会は甘くないし自分の思うようには決してならないこと身に染みた。自己嫌悪して現実逃避した頃もあったけど今になればよかったように思う。イイことだけがイイことではないんだよね。。

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