チコちゃん
感受や認識は自分の見方しかできてないことを知る。あらゆる角度や立場から何通りも見えるようになれるかどうかが大人への一歩で器量の大きさになっていくのだろうなってつくづく思った。友人がお世話になっている女性経営者さんの言葉がけや振る舞いの日常エピソードを聞いて、ご本人の感情とは別にどんな言葉が言えるかがその方の知性品性と人柄なのだと気づかされた・・もし私がその方と同じ立場だったらっどんな言葉を発しているのだろうと・・想像しても自分の感情と目線と自己都合でしか発することしかできない点がなんとも小さくと思ってしまった。もし相手を思いやる言葉や振る舞いも自分だけのフィルターのワンパターンしかないのが残念すぎる。感受や認識や器量は培われた知性と繋がっているけど、知性が知性=学歴=頭の良さ=真面目=社会的地位 目安ではないと実感する。今、知性がいつのまにかズレて、ブレてしまっている。例えば、詐欺は呆れるほどズル賢く次から次へとよく悪智恵思いつくなぁーっと、「無知は罪」耳痛い経験をしたことある私は、学業のお勉強では全く身に付けれない事だらけなのが社会だと。守りは最大の武器。守りっていうのは保守的な印象で動かない何もしないってイメージも浮かぶけれど、守るには逃げ方より避ける交わし方やうけ流し方を身につけそれ以上の見識が必須だ。見識ってやっぱり痛みや苦み辛さある実体験からでしか身にならない。偉人や尊敬する方は辛い体験をされているからこその器量を感じる。ビビらず恐れず実体験をしていこうと思うし、目の前に集中して実体験「自分の身体を使った実験」こそが生きてるってことのような気がしてる。ぼーーっとするならぼーーーっとすることを味わおう!!楽しさ嬉しさは人生を充実させるけど成長の栄養にはなりにくいんだなって、もがいたり辛かったり落ち込んだりが成長の種や栄養になるのだとも実感してる。