AKO’S Monologue

  • I am

    柔軟に対応するって・・・その時に合わせてだとちょっと手遅れになることもある。先手、早めが言い訳ではないけど自分のヴィジョンどうしたい=主導権あるうちが大切。誰もが主人公の自分を作ることができること・・自分を探すのではなく自分を創っていけること・・とても響いてる言葉だ。こんな人間だと自身で思い込むこと、自己勝手な解釈を改めてやめたいと思っている。多くのお客様がいろんなことにチャレンジ&トライインプットしている様子に触れると凄いなぁっとただただ尊敬するばかり。ムリ・できないと思うのも私で、やってみようとトライするのも私。最初から完璧に近い状態でできている人は誰一人いない。人は、自分でアクセルとブレーキの両方持っている存在と思う。私は使い訳ができているかというと・・どちらかというとブレーキがよくきく方カナ~笑だから身軽に感覚も敏感で想像力豊かでいたいと願いつついる。周りの人の言葉や環境が勇気のアクセル、慎重さのブレーキ、見直すニュートラル、元気のパワーチャージになって気づかせてくれる。自分の「ムリなくなんなくできること」は人から才能や特徴やその人らしさになっている。自分のことは自分で知り気づくことはできたないもの。接客しながら憧れや理想やコンプレックスや照れくささ、ちょっと恥ずかしさいろいろあるもの、お洋服選びに限らず、働くこと人付き合いも含め行動全域に複雑な心境でいるのが人間と思う。だから、今の自分に素直で今までの経験値パターンとつい思考クセでいる私に余白をつくり一新するのもありかなって思っている。柔軟性は私が先に変身、私の方から変わればいい余白の広さなのかなって・・・自分に色付けせず、何色でもいい余白を創ろうって今いる。

  • 循環

    最近響いたワードの循環。今日も小雨が降る、水も地球を巡り循環している。全て巡っている。循環を意識する事、しっかり見つめてみる。長らくアパレルに携わっていて水面下でいろんな事が起きている。お店のオリジナル商品を作ることでいろんな事を教えてもらいながら知りながら学ぶ機会を頂く。お洋服はほんと多くの過程があり生地製作の背景その前は色付け糸づくり、ボタンやファスナースナップの付属品、用途別の縫製工場さんの現場をお会いすることはないけど現状様子を聴く。今ドンドン高齢化が進み、人出が減り、職人さんがいらっしゃらなくなっている。0ゼロから1を作れる人やそこに最も近い人が減っている農業もアパレルも違いはない。生産性ある現場にいる人が弱い社会はどうなのだろう?って思う。資本主義社会で資本力が最強なのは仕方ない、ただ0⇒1にいる人や携わる人が循環の始まりを作ってくれていることがスッポリ抜けてしまっている気がする。母の幼少期は布選び採寸服を縫い作ってもらっていたから既製品が珍しかったという・・。商店街には魚屋さん八百屋さん靴屋さん傘屋さんカバン屋さんがあって歩いた私の幼い頃。魚屋さんの自家製てんぷらをおやつに買ってもらうのが美味しくて楽しみだった。身近くの小さな循環。生活は人と接することでストレスや煩わしさを生む反面充実感や心を感じることもある。温もりある循環に身をおいたら殺伐したもの切なさは感じにくくなる。ただ物質の物という見方しかできないことはとても寂しいように思う。技術という目に見えない人の技を!縫う織る技術、機械やミシンを使って人が作っている技も服に宿っている。いつもお世話になっているお直しやさんも魔法のように仕上げてくれる~どこを直したのかわからないほど美しく丁寧に~。いつの間にか蒸発して消えた水を惜しむようになる前に・・・大切に身近な循環を意識して味わっていたい。

  • 靴下

    季節を感じるアイテムとして靴の足元でお洋服の印象に欠かせない重要なものも靴・足元。日本のことばに「足元がすくわれる」が間違った表現で「足がすくわれる」が正しいそうだ。私も今回知る笑 足元の肝心さがわかるなかでその付属でポイントになるのがソックス・・・よく着こなしで相談されるアイテムの一つだったりもする。私個人は素足が好みではかないことが多く、靴や季節によっては靴下をはくぐらい。靴下をどんな時でもはかなきゃ落ち着かないという方もいたり靴を汚したくないという方もいたり靴下をよく履き替えるという方もいたり個人の生活スタイルに様々あるようだ。重ね着の秋冬はインナーを着たりコートを羽織ったりサンダルから靴下をはいて靴やブーツになり足元が変わっていく。季節感を出すのはここ最近の気候ではお洋服よりも細部のアイテムのように思う。見えるか見えないかの靴下の色使い、茶目ッ気チラリとして私の好きなアイテムの一つでセンスが光るところだとも思ってる。無難でいい・無難がいいと思ってしまいがちだけど、靴下が悪目立ちしてしまう意外な落とし穴が潜むことにちょっと用心してほしい。小学生の頃にスカートのひざ下から見える異様に濃かったり大根のように白っぽいストッキングに違和感を子供ながら思っていたのを鮮明に記憶する、最近はほとんど見かけなくなったけど・・・笑、ナチュラル=自然という事がとても大事だと思う。不自然というのはやっぱりオカシイ。振る舞いにしても言葉にしてもファッションにしても不自然というのは違和感のもとだ。振る舞いにしても相手を慮る、気遣いや配慮、言葉にしても言い方ひとつ言葉選び、ファッションにしても清潔感やたしなみや慎み。下心はいらない。。。

  • 突如

    突如やってきた・・・冬の寒さ。先日も東京出張で真冬を先に体験して一気にヤマグチも寒くなった・・もっというなら20日分の日めくりカレンダーをすっ飛ばしてしまったかのような日。急いで衣替えでニットやコート真冬物を出した。気づいたのはここ4,5年買ったお洋服の傾向と気分が今の私と違う所。ライトグレー&淡いベージュにしばらく凝っていた私が、まるで他人のお洋服を眺めてるように冷めてしまっていた。あれほど大好きでお気に入りでテンションも上げてくれたパワーアイテム達だったのにちょっと様子がオカシイ・・。ホンワカ・・ほっこりの様子が好みだったがどうも4,5年前とちょっとガラッと変化が起きているみたいだ。カッチリした格好のしたい気分になっているようで黒が着たい気分になっている・・笑 具体的原因が何かはわからないけれど・・想像つくのはパリミラノニューヨークコレクションを見ている機会が多く感化されているのもあるだろうし、夏日に焼けて・・・黒髪になったという事もあるだろう。コレクションにはデザイナーの考えとブランドの伝統と考えや社会へのメッセージも含まれ創り表現されているファッション達、私はとても深みがあるところがとても好きだ。人それぞれ服を着る事は全く違う価値観で意味を持つ持たないも様々だ。だけど、こっそりとその方を表わすの身につけている物だと思う。日本全国的にお洋服好きな人が減っている傾向だと話題にあがる。とても残念で悲しいことだなって個人的には思う。私はブランドや高価なものがいいと言いたい訳じゃなくて、服を着て嬉しさや楽しさや喜びがあることを知ってほしいなぁって思う。コンプレックスだった私自身が服を着る楽しさを知ってちょっと変化したものがあるのは事実だから。。。

  • 50

    あと半年で50になる私。お客さんは知人に半ば強引にゴルフ誘われて50ぐらいで始めたのよ~と仰っていた(今はゴルフある生活を楽しく過ごされていらっしゃる)、子育てひと段落した母も45ぐらいでパートに出ている(専業主婦だった私が仕事に出ていろんな他人と接することで社会を学ぶことができてよかった・・とつぶやいていた)。年上の自営の友人もまったく違う職種に飛び入りゼロからスタートし試験に通り新しい技術取得とライフスタイルですごくキラキラして充実している。年齢関係なく実動する身近から学ぶ、そして興味あるなしも関係なくキッカケはどんなだったにしても、ニガイこともあっただろうけどひたむきに取り組んで今があるのだなぁと思った。結果や今にしか目に止まらない環境だからスグ・早くを求めてしまう。急勾配で上がるものはその同じ角度で落ちるとトレーダーの知人が話した言葉が印象的に残っている。長い時間かけてじわじわ上がったものはすぐには落ちない。。焦る必要まったくない一旦止まる事や区切るは大事だ。今どんな所を歩んでいるのか周りの景色を眺めるときがあってもいい気がする。未来に怖じ気づいてしまわず、始めることにビビらず、今をめんどくさがらずいたい。コレは私がわたしに言いたいこと。ココシャネルは50からの顔はあなたの功績。50歳以降の自分の顔に責任持つことは日々の生き方や心の在り方を反映した結果だと・・。「責任」の輪郭を失わせ対人関係で薄くなりすぎてしまったこと。自分自身の気持ちを裏切らず手を抜かずいたい。

  • 秋気配少ないまま10月半ば迎えてる・・そろそろ来週あたり寒くなるとか・・、秋晴れと裏腹になんとなく気分冴えない日が2、3日あった。原因はコレといった具体的なことはないんだけど、おそらく些細なことが雪だるま式に大きくなっていって私を覆っていったのだろうと思う。落ち込むことは無いようにしてきた私もいつの間にかのまれていた。こうやって俯瞰して思えるのも身近なの事のお陰だったひとつは友人との会話やラインのやり取り、通勤途中の掲示板の「希望はある」の一言ポスター、朝お店前を掃除していると枯れ葉が渦巻きながら風に舞う様を見たとき・・だった。もともと掃除は好きな家事だからすすんでできるほうで散らかっているのがただ嫌なのだろうけど、枯れ葉集めつつ掃いているとひゅ~~~るるるの風に笑ってしまった。ただ自分がしているからしているだけのことでしょう~って思った。誰かに言われたからでも誰かに認められたいからでもなく、シンプルにただ自分がしているだけの事。どんなことも生活全般にいえることなのではないかなぁって思った。褒めてもらいたいから感謝されたいから自分を必要とされたいから認めてもらいたいと言葉する若い人が多いと耳にする(別の形をした依存だと思うし~の為とか)どこか自分を人にすがりながら行動すると苦しくなるんじゃないのかなぁって思う。若者と違い年長者にはこちら側の勝手な思いや捉え方をして批判や悲観的になってしまいがち・・私も私の勝手な自己暗示の狭い思い込みになってしまっていた。大人になればすべて自分が自分でしていること、他人のせいに親のせいに環境のせいにしていた方が自分を変えずに済むから楽なのかもしれない。。あざ笑うかいたずらするような軽やかさの風をいつも思い出ししたいなって思った。悪意のない明るいいたずら心にお茶目っ気っていつまでも持っていたい。

  • 私が思うオシャレっていろいろ表現できて「こだわり」「好き」「気分いい」「気持ちいい」「きれい」「リラックス」「無理しない」「ガンバらない」「感じがいい」「清潔」全て感覚っぽいところの集約が服なんだろうなって思ってる。だから、骨格や色を診断しただけで服を選び着るって勿体ない気がしてる。一つのパターンにあてはまるはずもなく一辺倒の理屈だけじゃないと思っている。私の接客はトータル頭の先から足、指先の全身が醸し出す全体の雰囲気を大切にしていてその方の好みや理想ももっと大事にしてる。最近は全身使ったパズルのような遊びに似てるなっと感じてる、自分自身が作品とでもいったらいいのかもしれない。ただ着る事をこうやってウンチク言ってる時点で煩わしくメンドクサく思われるかな・・笑 機能と美の共存 建築物、器にしても身近だとフラワーアレンジメントだったり料理の味でもあったりするんじゃないかとも思う。正解はひとつじゃなくて、お洋服は今のベストコーディネイトや今のお気に入りアイテム、今の気分で変わってくるもので常に変化するもの。食べ物だって旬があるようにお花にも開花時季があるように。楽しむことはオシャレも同じなんじゃないかなって思う。アピールするためより自分がどういたいかなんじゃないかなって思う。周囲の目やどうしても環境やシーンに制約は装いでるけど、自分の今を大事に過ごす方法のひとつでもあると思う。新しいものばかり目を追うより今持っているアイテムとあれこれ合わせながらバージョンアップしながらもいいし、お家探検もいい。流行りを追うより本人の気分や感覚を大事にした方がとってもいい。感じることが多いから洗練もされていく。感じることってその人の生きてきたところの歩みだとも思う・・五感活用の表れ。。。だから、好奇心もって何か感じるってとっても大事なんじゃないかなぁって思う。自分の感覚をもっと大事にしてほしいなぁ、それって自分を大事にしている事だとも思う。

  • なにか人に伝えたり、交流はフィーリングが近いとスムーズにいきやすくなる。そのフィーリングは価値観や振る舞い些細なちょっとしたニュアンスなのだと思う。出張の原宿渋谷界隈を歩くと異国観たっぷり~~笑 日本人のほぼいない場所があちこちあって日本人?韓国人中国人台湾人?服装ヘアーメイク振る舞い観察しつつ道を歩いて、もうさっぱり分からない私のアンテナ。異国観たっぷりを皮肉にすると日本人をほとんど感じにくいから。日本らしさってなんだろう?特色っ?想像すると具体的にはよくわからない。今、読む本や学んでいる事からも環境の大事さともにその影響が強いと、どんな人とどんな環境で・・言葉遣いが思考へ、思考が行動へ、行動かパターン習慣へ、習慣が生活全般に色濃くでてくる。どんな環境に身を置きたいかって希望はとっても肝心!今さらながらの今だから!と改めて思う。キッカケを作ってくれるのは人から、ヒントも気づきも周りからだと思う。有難いことに年上の方からは生き方や前向きな明るい在り方、年下の方には今の感覚や話題を教えてもらう。会話には多くのヒントが潜んでいる。日本人って儚さの美が心の根っこにあるらしい。お茶でいう詫び寂びもその流れ。一期一会もその一つかな~っと想像する。都会生活で繊細でいたら憔悴してミイラのようにゲッソリすぐなっちゃうだろうから、大都会は図太さが必要になってくるのだろう。大勢の人の中だと圧倒されてしまう私もようやく少し変われた。いいなぁって羨ましくて凄いなぁーー卑屈や見栄を張っていたころの私もいたけど、今は隠すより無知や弱さを素直に認めているからありのままでいる。周りに素直にいると環境が優しく感じられるようになってくる、勝ち負けも上下もない自然と穏やかな環境がやってくる気がしている。

  • 豊か

    青さ引き立つ秋空で空気も澄んできて気持ちいいのに世間は対照的な様子が漂っている。そんな時だから何を思い笑顔でいるか想像してみる・・やっぱり自分次第の工夫次第のような気がしている。例えば、白さ目立つ髪が多くなり視界にチラッっと入る白い髪にぞぉっとしつつ年齢をヒシヒシ感じ溜息出ていた、今はちゃんと年齢をいつも気にしている訳ではないけどオバチャンゾーンを謙虚に受け止め自覚できている。笑 だから、肩の力も抜けて無理もせずジタバタもせず、少しスローに少し余裕が持てるようになってきた気もする。いい意味で気負いを自分に暗示かけず自分自身を過大過小もせずそのまま受け入れることで上でも下でもない視線で見れて変化してきた。多くの方のリアルな生き方や在り方(悩み、思い、照れくささや綺麗、美しさ、面白さ、個性)を感じ過ごせている有難い。嬉しさも悲しさも楽しさも辛さの感覚感情があるのが大切なのだと思う。誰の言った言葉か忘れてしまったけど、楽しさがずーーーーーっと続いていたらそれが普通になり楽しさも忘れあたり前になってしまう。苦の刺激って本当にない方がいいのかな? 苦痛は進歩するキッカケ、そこから多く学びと成長の伸びしろがあることがある。苦みの分甘みも感じられる。片一方だけの感覚だけでは成立しない。若と老。暗と明。若い時には無かったもの気づけなかったものが今ある気がしている。そして、両方を超え俯瞰したところに禅の無になるのかなぁと思う。ただ美しい、綺麗だけは存在しない。美しい綺麗と感じた側の感じとるセンス。やさしさ、思いやり親切も感じとった側のセンス次第、私はやっぱり全域センスのいい人になりたいなぁ。センスのいい言葉、センスのいい振る舞い、センスのいい人にお金あるないは関係ないお金でセンスは買えない、お金でセンスを磨く体験はいっぱいできることは事実、センスのいい生き方はお金の使い方もセンスがいいように思う、メリハリがあることも豊かな人のような気がする。痛さ、苦しさ、厳しさがあるってとても大事なことだと思う。だから、若い時は買ってでも苦労をしろって流石先人の智恵!!

  • ソロフェス

    以前も書いたことあるけど、私は本読めなかった・・。もっと言えばもっと早く本知っていたら人生違ったといえるし、遠回りしなかったところもあるかもしれない。笑 今の生育より笑 倍速で成長していたのでは?と思える・・先人や偉人、ずっと伝えられている智恵に触れられる本と出会っていれば、ひねくれてた思春期や何故進学するの?って疑問・・ちょっと前向きに明るく過ごせたかもしれない気もする。やっぱり無知は罪だ。被害妄想してしまうのも自分の考えに固執したりその固執にも気づけない。いろんな本に触れて共感もできたり嫌悪したり涙したりする。完読して登山のような山頂の景色のような本もあれば、後味残る食べ物のような本、スラスラ相性いい本や世界の広がる本もる、何度トライしても読めない本もあるのも事実。本も服のようなところがあるなぁって思った。本にも流行りはすごくあるし、有名ブランドのように話題の有名作者がいたりして似ている。人の環境にある人間の作るモノってみんな形は違えどソックリだ。世界の文学をしっかり沁みこめてない私がこう書いているのも筋違いなのだけど、ちょっとのぞき見興味・好奇心もってもらえると楽しいかなってジョジョに変化始まる気がしてる。大人だからちょうどいいタイミングかもしれない。LINEアプリにAI機能がついた時代、便利より人間の楽しみや人間らしさを奪われてしまうかもしれない。話を聞くおもしろさと楽しさと同じで本も似ているようなところがとてもある。話すことで人を感じられる、一言の「ありがとう」があるから人は寂しくない。もっと広く、もっと深く、ちょっと明るくなれるといいなぁーー。

  • ソロフェス

    ソロフェスに提供している場所をつくるキッカケは私があったらいいな~と欲しかったから・・・
    静かな場所で本が読みたい、それが家でも移動の新幹線でもいいのだけれど日常の生活圏内でゆっくりひととき過ごせる空間があったらいいなそこにちょっとステキがあったらより嬉しい。程よい距離感の親しくないけど始まる会話もあってもいいと思う。空間の力ってそこにあるモノ全てを心地よく包むのかなっていいメロディを心が和むようにいい香りで心が緩むように素敵って穏やかな尊重。世界陸上競技中解説者が批判的に批評するので家族中苛立った笑 一人一人全力でこの大会に向けてきていて理論と理屈だけで批判する言葉に気分を害した。スポーツが肉体だけではなくなってきているのは聞いたことはある。分析や理論や頭脳バランスよく取り入れ、周囲の人物環境&論理的&肉体&メンタルの総合だと思う。行動に肉体と頭脳はセットだと思う。料理だって、服を着る事だって、働くこと、植物を育てること、掃除すること全般で。。。損得でプレイする人がいないのがスポーツのいいところだ。競技上の駆け引きはあったとしても精いっぱいプレイしている。自分でもどうしようもできないほどスランプに落ちたり、なかなか調子が出なかったり人は機械のように一定ではない。競技を終えても素晴らしい光景が映る、競技を終えた後の言葉に人間性も表れ素敵だ。個人的な事だけを離す人が少ないのが印象的で競技者を代表して表現される方が多い。世界だから全体を捉えるからとても自然なことなのかもしれない。ちょっと空間を変えたら世界も変わるかもしれない。本のある場所で本を読めない人が好奇心で覗いてもらってもいいし、何かのキッカケにちょっと会話してもいいと思う。本は人の一部の分身で表現されたもの。人に接することに近いような気かする。なにか心が動いたり発見したりオモシロイがあればいいなって思ってる。

  • このタイトルにすると沢山のことが書けそうになる・・水自体、水の環境、気候、自然、水のつく表現に関してだったり。百名山縦走されたお客様との会話で印象的な言葉があった。清々しく満面の嬉しそうな笑顔の山頂写真や美しい高原の花写真も見せて頂きながら、美しい光景の反面崖や岩場の怖さや引き返してもう一度ポイント地点に戻る決断、過信しない慎重な判断、独り歩く気持ちの葛藤も・・・。美しさや笑顔写真には写らないものを聞くと見え方も変わる。山奥の小屋にヘリコプターで運ばれてくる水と食料、着地スペースないから荷だけが地につきヘリコプターの巻き上げる風の中交換作業ゴミが運ばれ戻っていったそうだ。山小屋のお水はとても貴重で高価で命の水。綿密な計画を立ててしっかり準備と覚悟を持って入山しても水は補充しなきゃいけないもの「水は命だからね・・。」ほんとそうだなぁって。身近にあり過ぎて・・昨日も線状降水帯で突如土砂降りに困り果てる・・ほんと勝手な私で人間いや日本人の私なのだ。蛇口の水を流れを見ながら「水にながす」とよく言ったものだなぁあああ。。水はどんなときも流してくれる。水に気持ちがあったらどんなことを言ってくるのだろう?笑 ここ最近加えた 上善如水 の字のメモがよく見える位置に陣取り貼ってある笑 水のように成れたらいいな・・わたしのテーマの一つかもしれない。透き通るようになるにはきっと崖っぷちのようなピンチもクリアしなきゃだ。クリアするからクリアーになれるのだろう。。笑 

  • なるべく機会があればトライしてみようと思い始めたこの頃。。。ここ最近どうしてそんな心境になったかというと、身近な人の影響と若くない自覚をしているからと思う。何か始め習得もスムーズなはずはないけど、チャレンジしているから様子がキラキラしていいなーーって、私も硬く頑固になりたくなくて、もっとカル~~ク心も身もソフトでいたいなって。フットワーク軽いお客様のイキイキしているのも感化される。つい失敗したら・・・って余計なこと気にしてしまうも、そもそも失敗ってアルのかナイのかって言ってしまえば今は無いように私は思う。人生の出来事で希望や想像、予定通りだけってことはない後悔もする、失敗じゃなくて一つの分岐点でそれからもつづいていてそれからどうするかが肝心かな・・って。ショッピングの失敗もないような気がする気分や時季とともに変化する。お洋服の整理したら10年以上前のお気に入りの服が出てきた。その当時とっても気に入っていたその服を着てる私が想像つかないからサヨナラする物とまた着るかもなーって残す物のが半半だった。着なくなった服も失敗じゃなくて内面が変わっただけ、変わった自分自身を知り受け止めたらそれでOKと思う。一度も着ない服には何か理由があるはずでそれも自分を知るキッカケのひとつ。きっとお洋服やオシャレに対して自分の内面変化や自分を知るヒントがあるのかもしれない。服は変わらない、私が変わっただけ。楽しむも面白がるも私の心だけなのかもしれない。

  • シンプル・・

    お茶を習いどのくらい経っているのかわらからない、やっとのやっと身体のお点前と頭の知識が少~~~~~し合致し始めたぐらいの進みよう・・笑。お茶席には暗黙の合図がいろいろあってその暗黙というのが亭主と客の双方がわかっているベースあって阿吽の呼吸でスムーズに席が保たれ流れていくのがいい。そこが美しさの一つだと私は思っていて好きな所。お茶を点てるお点前も言い方変えれば、ただ順番に次⇒次⇒次と淡々と行うことっだと言ってしまえば殺風景な事になってしまう。その順序も大事なお道具から、極力無駄な動きをなくすため、お客様への配慮あってのことなどその一つ一つに意味があって奥があってオモシロイなぁっと思って楽しい。目に入るだけの奥に何か意図と思いがかくれんぼしていてそこに気づけるようになるにはずーーーーーーーーっと先で知識が教養になり身になるぐらいだからいつのことになるかわからない。終わりがないからその途中が肝心で意味があるんだと思える。「道」が付くものもそうだし、習い事もそうだし、働くことも、人間の活動全てが一期一会で似ているような事も全てチガウことなのだとやっと実感できるようになってきた。目からの情報を脳みそ認識が同じパターンかのように当てはめて感知しようとするらしい。いい所でも悪い所でもある。同じお洋服を着ていると安心?飽きた?これって私の気持ちの問題。例えば結果や成果や点数や数字や入賞、順位だけ見るとすっ飛ばしてカラッポになってしまう。その合図のような数字や結果の奥に隠れんぼしている見えない何か気づける人でいたい。

  • 着楽

    猛暑日と違う最高気温にしてもまだまだ汗もしっかりでて涼を求めてしまう9月。秋冬服の動向が気になり始める頃でもあるし、先の予定にどんな装いがいい?って質問や相談されることが日に日に増えてきている。ファッションを楽しむ私も早くから季節感取り入れる着こなしもしなくなってきた。カジュアル化が進み過ぎTPOもなく季節感薄くなってきてしまっている。例えていうなら旬のお野菜お魚の時期を感じない食卓と同じことが起きていると思う。ただやっぱり虫の鳴き声する夜や、秋に実る果物が並ぶと風情感じると秋の装いがしたくなってしまう。ムリはしないで賢く秋のニュアンスを近づけていけばいいと思っている、夏素材の新色も多くお店の雰囲気は秋色になってきている。今の時期は我慢せずで夏秋夏どっち?の装いで十分いい。きっとこの先も暑い秋は続くだろうから上手に色を取り入れたり、少しずつ秋らしくするのがお薦めだったりする。自分の理想や好みや気分やコンディションの自分ペースが大事だと思う。自分を知っていることと新しいアイテムも発見も楽しめる=ちょっとした余裕=オモシロク捉えられる事もマイペースがいい。自分を持つことも大切だけど度を超すと頑固になり新しいものを受入れられず拒絶して自分の思い込みだけで邁進し老害になると記事にあった。お洋服で老害が起きないようにしよう。笑 オシャレって快適に心地よく楽しく過ごす方法の一つと思う。そして、感性や感覚の柔軟性のトレーニングともいえるかもしれない。もっと着楽にいこう~~!!だから、尽きない楽しみとおもしろさが続くのだと思う。

  • シンプル

    日頃行かないような場所に身を置くといろいろ発見してオモシロイ。勝手にアレコレ思い想像する、その「思う」は経験と環境からの一方的な眺めからきていることと感じた。年を重ね偏っていき狭くて一方的になることの恐れも感じた。もっと軽く広く深く思うことが出来るようになったらいいなって思う。朝晩空気中にひんやりとした秋の種が含まれ今年も3/4終盤になってきた・・年始め?何を思い何をしていたのだろう?全く思い出せない笑 年始めの過去もこの暮れの未来も想像できない笑。ツクツクホウシがしっとりと切れ味なく鳴いている、ただ鳴く蝉のようにシンプルに今居よう。デザインのある服、奇抜な服、オモシロイ服、変わった着にくい服、着心地の悪い服、いろいろ沢山着てきたから辿り着いた今の私のセレクト。ニガイ人間関係あったからアッサリしたシンプルなお付き合いがいいと思えるようになる。シンプルになるって大人になっていくことと似ているのかもしれない。体験のなかで傷ついて反省して後悔して複雑な心境をブレンドしすぎたから最終的に自分らしく割り切りシンプルに潔くなっていけるのだろうって思う。分かちあえる共感がベースにあるからシンプルに人間関係が成立していく。あちこちで文章読むのもつらい注意勧告ポスターや社会マナーがわからない幼児向けのようなアナウンスが流れ雑音や粗野な様子が増える、ベースが抜け落ちて無いからシンプル不成立なのだろうなって思ってしまった。

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