AKO’S Monologue

  • 一度体験したことは焦ることはずいぶん減る。車のカギが全く反応しなくて鉄の塊となった車。車のフォルム好きでも機能やエンジンは何も知らない。動かない車の対処を初めて経験したときはパニくったけど、2回目はチョット余裕~動かないものは動かないトしょうがないと仕方ないって判断速い。私の普段はしょっちゅう焦る・・突然、予想外にとても弱いと思う。だから、そんな時に冷静沈着に物事思考するタイプや感情的にならず淡々といれる人がとても羨ましくて憧れる。どうしたらなれるのだろう?って想像してしまう私のないものねだり。元アスリートの女性がいつも冷静で一番いい判断と選択ができたら途中ダメだったとしても結果良ければいいのが試合だと語っていた。見た目じゃわからない芯の魅力感じるフレーズだった。多くの試合経験が内側の要素に凄く詰まっているんだろうなぁとも感じられた。嬉しい楽しいの真逆の体験が次の判断と選択のきっかけになって、次の行動になるのだなーっと、何も表面に現れない内面の動きからの次、経験で人の幅も深みも大きさの人格になっていく・・楽しさになる前にきっとスランプや思い描くようにスムーズにいかないときがある体験があって楽しさや冷静さに変化するんだと思う。編集処理された画面よりライブが大切なのをつくづく思うこの頃。もう桜がちらほら咲き始めのこの寒さは2月下旬の山口の気候だそう、桜もジワジワゆるく花開いていくから長く楽しめるのかもしれない。速い・早いだけじゃないかもしれない・・、2年目の桜の若木が1メートルもなく幹も枝のような細さで直径3センチあるかないかぐらいでビックリした。いつも見かける桜の木はいったい樹齢何歳なのだろう?桜馬場通の真っ黒の太い幹の桜はいったいいつからソコで咲いてるのだろう?

  • 情報

    情報化社会 そんな言葉がありました・・今はどうなのだろう?知識あっても生活に活かすことできなければ、そんなに知識も情報も大量にいらないように思ってしまう私の生活。先日Googlemapで土地勘のない場所をドライブするとビックリするような山道を通されてめっちゃ焦った。車の痕跡も轍もなく、枯れ葉も積り苔の生えた道この道が合ってるのかどうかさえドキドキ不安で途中引き返したくても前に進むしかできない細い道。 ハラハラでこういうスリリングはメンタルにくる。対向車がこないことを願いながら目的地付近にどうにか着いた。行ってみたい&どんなところって好奇心でドライブするとこんなことになる。スマホですぐ検索できて情報得ることはカンタン。そこまでの道のりがどんなものかは無い。何もかも便利になっていて直ぐ直ぐ結果や目的や結論入手できるけど、やってみる実験をしないと形のないものを習得はできない気がした。私はたま~に山に登る。独りで登る勇気もないし、登り始めたらワクワクの楽しみから一瞬やるんじゃなかったと戻りたくなる心境になって、頂上までたどりつくのかの不信感と不安の怖さになり、それからっもう!進もう!って気になり、無言で一歩一歩ひたすら登りつづける無我で・感情・だから過酷な山登りが修業だったのだろうなって感じる。私自身のメンタル試され弱さを知る。スマホから得たもので知っているような勘違いより、実体験の実験から自分の内面を知ることできて、自分をカン違いしなくてすむように思う、ピントのずれた大人でいたくないなぁって思う。

  • 名刺・・

    勘違いしてほしくないのは、オシャレとか高価とか流行とかそういう単なるお洋服やカバンや靴の物質だけが身につける本人より前にでてる広告のような時代じゃなくなっているなぁってこと・・。その方のほんの一部、スタイル、人物像にお洋服がマッチしてその見えない全部含まれてること。吟味して選ぶとか、大切にする思いとか、流行に流されず好きや、その人の気配がでることが服を着ることだと思う。服に自分を合わせるのではなく、主役は自分で服を選んでいるかが重要「っぽい」「しっくりする」っていうのがとても大事。ファストファッションもその人っぽさ、~らしさに加わるならそれもいいと思う。私みたいに規格サイズ大幅にはみ出しているタイプはちんちくりんで着られない、サイズあったとしても着心地しっくりしない違和感あるならやめておく。ムリに服に合わせて妥協してもすぐに愛着なくなるというか最初から愛着がない・・・。結局、中途半端は中途半端のまま。。違和感も2タイプあって新しくての違和感と何かシックリこないの違和感。新しすぎての違和感を取り入れるのも本人次第でいい、気分や気になるや着てみたいの感覚を大事にしてほしいし、買っても着ないなら買うタイミングでも挑戦のタイミングでもない。お洋服は難しいものでも無理するものでもなく自分自身を楽しむ行為の一つ。服を着るって人間っぽい行為でオシャレするって自己満足の自己の癒し方だと思ってる。A.I.と共存の今、情報量A.I.には敵わないけど、服を着る楽しさやトキメキや面白さやキラキラする感覚はA.I.には理解できないし共有はできないと思う。その楽しさを知ってる人と人の間の共感と思う。これからは一方的じゃなく相思に共感するときなのかも・・。。

  • 名刺

    ここ数年・・思えば長いこと名刺を作ってこなかった。肩書など気にしない名刺を持たない憧れるカッコイイ大人たちと多く出会っていたのが理由の一つ。いわゆる肩書なくても通用する方、何なら世間に向けてアピールする必要ない方、多くのお役を持って名刺に収まらない方だったり。それまでの経歴で培われた行動と言動で人柄への信頼が厚いからなのだろう。そういう方は名乗る必要がないほどの凄い人々、そうなれたらなーーって保育園児が大学院生に憧れていたような・・笑 私には理想が高すぎた・・ということで、この度4代目名刺を作ることにした。先日2代目名刺を大事に持って再訪して下さったメーカーの営業マンさん、有難くもあり懐かしくもあった。その名刺を作った当時の私はお店を初めてまだ数年目という事や30代前半で力みまくりでガジガジだったように懐かしく思う。今思えばかっこつけすぎのファッションしてるような名刺だ。毎年の年末年始のご挨拶カードでお世話になっているハンバーグの田嶋くんにあれこれリクエストしながら今回の名刺もお願いした。グロージェを客観的に見ることできるけど毎度私の要望を叶えてくれてる。去年秋作られたベースを改良してもらい、新らしくスタートする気持ちで名刺を作ることにした。具体的に変化することはないただ、私の中でリセットしてバージョンアップする思いで願望も含めてのことだった。ずっとお洋服を通してお客様と関わってこれた分、福を着る がテーマ!!服が福になるように。。洒落っ気も自分を楽しむ、生活を彩ったり・パワーアイテムだったり自らを大事に心地よく居れることでもあったりと思うから・・。リアル社会で服をどう着て過ごすかが、これからはアイコンやアンテナのようなものになっていくんじゃないかと思う。何も語らなくても服も含めたオーラ!?雰囲気というのだろうか。。

  • リスケ・・

    丁寧を感じられるひとときは癒されるんだなぁって・・まるでパサパサの髪をトリートメントするような感じ。丁寧っていうのは決して業務的で表層的なものじゃなくて、優しさや思いやりや気遣いみたいなハートのようなホンワカあったかいものなんだと思った。あからさまなパフォーマンスや表現じゃなくて言葉でもなくても浸透するように伝わってくるおもてなしして頂いた。店主のこだわり、ちょっとした配慮があちこちにあったから浸透したのだと思う。丁寧って言葉を調べてみると昔、中国の軍隊では注意や警告を促すために「丁寧」という金属製の打楽器から転じて、細かなところまで心が行き届く 意で一致するようになったらしい。同義語(細心、念入り、丹念)調べてあったけどどうも私には未だピンとこない。おそらくこの同義語が縁遠いからで大雑把の対義語の丁寧で苦戦してるからだと思う。お茶稽古続けているのも大雑把の修正で丁寧を身につける為でもあったりする。自分の理想や憧れには相当道のりは長くいつになったら・・いくつになっても・・なのだろう。ただやっぱりあきらめたくないし、少しでも憧れや理想像にちょっとでもなりたい。理想像や憧れは人と比べての目標じゃなくてシンプル素直な気持ちで人のいいとこを見習う(素敵な人から吸収する)。無意識にいると根っこの大雑把が直ぐに露わ・・根っこは変わらない、意識していればいつの間に身につく可能性を信じて。ステキにいたい、キレイで居たい、美しくいたいは作れると思ってる。

  • リスケ

    リスケと言われて、わたしはリクエストスケジュールかと思いきや~スケジュールを改めてつくり直すことだった。笑 ビジネス用語にあまりにも疎く・・お恥ずかしい。最先端用語もわからないことだらけ周りから教わること多い、だからと言って使わないというか使えない。大阪&東京出張先でお取引先さんと食事しながらいいひととき過ごすことができた。アポイントを取った際、「お茶か食事でも~と思っました」から再度スケジュール変更しての返答「リスケありがとうごさいます」私としてはお忙しい時にお時間とっていただけるこちらこそ感謝でご一緒に食事しましょう!!とリクエストした方なので、リクエストスケジュール!?って勝手に思ってしまったのだった。どうしてもこちらの都合でお誘いしてしまっては申し訳ない気になり遠慮がちに、ちょっとしたフレーズ言葉で流れが良い方へ変わりこころ遣いを感じる。おまかせで予約してくださったお店は一品一品とても丁寧に創られ盛り付けお皿もほんわか漂うもので優しい気持ちになるね~~と話した。提供のタイミングも心地よくて会話も弾みオシャレやファッションや経営や感覚っぽいところまで話題はずっとずっと広がり盛り上がった、お互い明日もあるので終わり時間決めていたので アッサリとまたっ!!と別れた。時間は大切に過ごすことはメリハリもって今に集中することで、相手への気持ちや思いやりで掛け算になるんだなっと感じた。時間を自分への労りや癒すときがあって、誰とどこでの相乗効果もあるんだなって居心地いいって!!。ステキなお料理をじっくり味わいながら印象残るささやかなひと時だった。人の丁寧って(心配り)人を癒すパワーあるんだね~~。

  • ENGI

    今日は一年で最強の縁起の良い日らしい。あまり意識しない方もいるはずで一人で色々決め事すると縁起いい日を目安にすることもある。笑 頼りきる、気にしすぎることはないけれど頭の隅に置くようになったかな・・。イイこともあれば悪いこともあるで 水戸黄門のテーマソング「人生ラクありゃ苦もあるさ~~~」って感じでどちらかの片方だけという事はないと思う。。私自身の経験で体力的にもメンタルにも苦しい負荷がかかると似たような次回の体験はカルーーーク捉えられるようになるんだなぁーーって実感してる。苦しさも年齢や状況や環境でも受け止め方が変化してくるから・・苦しさや辛さは自らの未来の栄養になるのだなぁと思える。楽(ラク)は落とし穴で墜落のようにも思える。ラクしたい(落したい)って字にしてみたら、楽ばかりを求めなくなるんじゃないかなって思う。笑 縁起も「縁あることが起こる」にはなにもしなかったら ×ゼロ で今日のパワーも活用できないように思えたりする。動くと何かが動くはず・・。明日から大阪&東京出張で動くから何か新しい発見も起きたり、取引先さんお誘いして幅広く交流もできたりする有難い。どんな方をお誘いするにしても勇気がいる、なにか始めるにしても勇気がいる、そんなときにこちら側の気持ちが大切だと思うし中途半端なアクションほど中途半端な結末。。中途半端になるぐらいなら何もしないでいる方がいいと思う。其れこそ試験なんてお試しの経験で人生がすべて決まるなんてことはない。そのキッカケから本人がどうするかそれ次第!!志望大学入試を落ちたことでそんなに社会は甘くないし自分の思うようには決してならないこと身に染みた。自己嫌悪して現実逃避した頃もあったけど今になればよかったように思う。イイことだけがイイことではないんだよね。。

  • マーブル

    私はマーブル柄が好きで、いつだったか一つ一つ手作りのマーブル柄で表装されたノートを選べなくて全部買いしたことがある。笑 どれも違っていてどれもイイんだもの~~~。数冊は親しい友達にプレゼント。十人十色と人の個性を例えることがあるけど社会も個人もそれぞれマーブル柄みたいなものだなーーーってふと思った。マーブル柄に淡い色だと馴染みやすく存在も淡く薄い。ビビッドなカラーは強烈で存在感が出過ぎて主張してしまう分浮いてしまうことになる・・・。マーブル柄のベースの色(キャンバスの色)次第で色の見え方は変化するなって想像する。今の日本のキャンバス色は日の丸の旗のように白いのだろうか?濁っていてもう白じゃなくグレーなのだろう?それともチャコールグレーのように限りなく黒に近いのだろうか?とも想像してみた。黒にどんな色を混ぜても黒に吞みこまれて黒さが濃くなっていくだけ。。。唯一白を混ぜたら薄まる程度。。。白だったらどんな色も美しく見えるはず。。私にもキャンバス色があるように、一人一色キャンバス色があるように思う。アクセントにも対照色もあるし濃淡もあったり馴染む色もあったりする・・・。マーブル柄って同じものがないからオモシロイ、グニャグニャ馴染んでクネクネの不揃いの湾曲が具合がすきで動き変化が残っていていい。マーブル柄を描くみたいにちょっとずつ相手の色をいいとこどりすれば深みのある配色になっていくと思う。そのキャンバスに何でもかんでもハンコのように型押ししてしまうとマーブル柄の前に型押しされたプリント柄だけが悪目立ちしてしまう・・。その柄ってどこかで見たような・・って錯覚起こさせるコピーじゃなくマーブル柄のオリジナルでいたい。。

  • イッポ・・

    ソロ活ikiiki 参加した私の思いは、以前ちょうどコロナ発生の際グロージェの建物三階にサロンオープンしたのと近いイメージだったから。全く知らないコミュニティに突如入るのはちょっと苦手・・人と親しくする距離感も難しいのが今のご時世。肩書や年齢など関係なくフラットになれる所ってありそうでない。。。いろんな考え方があるのも事実だけどエチケットを守りマナーあってのコミュニケーションが成立してのコミュニティ。コロナの時にコロナ明けたときに、服装でその方の思考や価値観の見えてないものが表面化してくると予想した方のコラムを読んだことがある。私の立場からしてもその予想は今現実になっているように思う。ステキって思う相手には。ステキって感じるこちら側の感覚があってのことだからだったりする。相手に優しくできる人はいろんな意味で余裕があるから人に対して攻撃的ではないように思う。私も伝え方や表現が単刀直入すぎて日々反省しなきゃと思い、口は災いの元と重々意識している。自分がイヤなことは誰に対してもしない、というのは最低限のエチケットだと思う。人はリアルの話を聞くことで気づきや何か感じられることや、日常活かされることがいっぱいある。だからそんな場所の提供ができたらいいなってずっと思っていた。誰とでもどんな人とでも親しく仲良くいるというのは本質的な大人は求めていないように思う。生き方の工夫や考えに触れることでちょっと幅が持てたらいい、それがリアルで身近なら尚いい気がしてならない。。知らない画面上の仮想のものより生の人からの名言はやっぱりすごく響く。それはその方の経験から出ていることで五感からの智恵がギューギューに圧縮されて詰まっている。リアルをもっと楽しもう。楽しむって刺激があるってことだと思う。

  • イッポ

    空気のなかに春をふんわりっと感じらることが増えてきつつ。すこしずつ変わりつつある見えない気配。散歩しながら人の多いメイン通りから一つ路地を歩けば誰もいない・・賑やかな明るさは目立ちそれはそれでありで静けさも落ち着きがあってこれもありで、明暗という二元的な捉え方のみでは窮屈になる。~じゃなきゃいけない!~あるべき!みたいな型を作ることは実はラクなのかもしれない。最近、ソロ活ikiikiというグループというのかな?経歴も違うメンバーで活動していたりする。今まで接点ないような方との交流なのでとにかく新鮮、いろいろ観察&発見も気づきもいっぱいある。メンバー一人一人キャラも役柄も違う分バランスもとれている。。長年一人でいた私がチームで動くというのに戸惑いありつつもいい刺激になっている。周りの得意とキャラクターを感じつつ、私に何ができるのか手探りだったりしていて自ら振り返りの棚卸しになっていたりもする。笑 人と私を比べるんじゃなくて、好し悪し、勝ち負け、強弱、大小に分けて捉えることでもなく人と私を比べることでもなく自ら知る真っ最中。思い込み・先入観なしに自分を傍観するってとても難しい気がしている。知ろうとすればするほど元元は空っぽなんだと驚く 笑。そうなってくると理想や憧れや尊敬などが肥しになって自制心や周りの助けや人で形成されているのだなぁって思う。改めて人間(人と人との間の生き物)の対人関係ってその人の全てを表わすんだなぁ・・ってつくづく。

  • いつまでも柔軟なわたしでいたいと願いも込めてお店の名前は私の造語。つい頑固に、ついスキ・キライの感情に、つい思い込み、つい捉え方も偏り一方向だけの視野になってしまわないように~。例えば100、1000 A.I.に提案させてそれを人間が3つ絞り選ぶような時代になっているそうなのだ。選択する:選ぶという事はやっぱり変わらず、生きる特権みたいだ。A.I.共生していても主は自分=本人。若い時より断然選択対象が増えているけど、様々な情報を多岐にわたってどこまでも広い、だけど、自分の興味の湧く、惹かれるって感覚はどこからやってくるのだろう?って考えたことがありますか、どうしてそれが食べたい?ってフト・・。この微細な感じってスッゴク大切で、服も最も初めは違和感、ピンとくるこないも変化のキッカケ。お洋服を楽しむって自らの感覚を鍛えんがら変化楽しんでいるってコトでもある気がしてる。美の追求って終点がない。だからおもしろく楽しいから私は虜なのだろう。春間近でも寒い時期ちょっと冬服飽きはじめてるけど春物はまだ薄く着れないって難易度上がる。今時点の感覚や気分を大事にすることが大事。主役はいつも自分本人。目を外に向けるより自分を知ること。自分を知らなければネット検索してもオシャレにはなりにくい。似合うとっておきの服は見つけにくく服も見た目だけじゃわからない。1000通り提案できるA.I.が相手なのだから・・。外ばかり視るのではなく自分を知ったほうがハッピーの近道のような気がしてる。気持ち&気温のギャップでオシャレ心も凍り一旦停止気味・・だから オシャレ支度しながら春を待ってるところ。。

  • 凍るような寒波のさなかに新作春物が続々と届く・・いつ頃着ることになるのだろう?って思うほど薄物も多い。確実に季節は巡るけど背伸びしてムリしておしゃれする年頃は若い世代に譲るとして・・お客さまと会話でどうしても暖かいニットお薦めしているとヘビーローテーションで毛玉できたり、ちょっと着古した感でてしまうといわれる。こういう時期は暖を取れるものがいい。着古す言い方変えれば、愛用品でマイワードローブ&テッパン定番を確立しているということ。私も手離せないお気に入りニット~「コレコレやっぱりコレあったかい」って物がある。お店にいるとき躊躇なく着ていると言えば嘘になってしまう。お供歴ずいぶん長いものを私は着てる。新しいものの良さもあっていい、長年の愛着あるものもあっていい。古い新しいで判断するのではなくて新しい=いいもの=オシャレでもないと思う。着る本人の気持ちが新鮮になるなら~不動の安心感あるなら~べんりでこれがなきゃ困るなら~わたしはお洋服に旬はあまり無いと思う。クローゼットの中で眠ってる服も再確認すればリバイバルするることだってある。久しぶり着てみようかなってことがあっていい。大人になってしっかり吟味して選んでいたらそんなにはやりすたりは関係ない。逆にあれがもう一度欲しいと探していたりするぐらいのアイテムだってある。お洋服も一期一会だったりする。新しい出会いも楽しく何かが変化するキッカケになったりするし、しっくり馴染みの服なら新しい色で取り入れるのもいい。新しい季節がやってくるまた何か新しい出会いと気分になれそう。ウキウキする。

  • KEHAI

    雪舞う数日間から今朝お店の掃除しながら冷たい空気に春の気配があった。植物が喜びそうな。。。グレイ色の空気から黄緑色が交わりはじめてるといったらいいのかなぁ・・。この春のお洋服もパステルカラービビッドいろんな色がある中で、NEWは水色。特に久しぶり!デニム祭り コレクションもさまざまなデニムがあったので春はじめから注目してほしい。ボトムフェチの私自身デニムを履くこと引退してるけど 「履いてみようかなっ」と思えるような様々なシルエットがあってココロオドル。洋服歴感じさせるようなデニム、洒落っ気たっぷで懐かしいのか新鮮なのかのハザマの履き方のデニム、スタイル抜群、足長美脚デニムまであってそれぞれ楽しい。ファッションって楽しい&気分いい&ご機嫌が心が弾むが大大前提。興味のない人もいてもっとほかに惹かれる対象があるのだと思う・・。自分に関心を寄せる、自分の好き、惹かれる、憧れる、遠慮なく楽しむのがステキの要素。書道されているお客様と話ながらファッションと似たようなところがあっておもしろいなぁ・・。字体のバランス、はね、はらい角度、墨の濃淡、かすれ、半紙の余白、落款の位置、全体のバランス奥がとても深い。シンプルなものだから細部が際立つ。すべてセンス心に響いたり感動したりする事は、ぜーんぶすべて同じなんだと思う。仕上がった作品制作途中がとてもドラマチックだったからより素晴らしさが輪をかけて増していく。惹かれる、魅了されるってきっとそういう気配含めてなのだろうなぁ、醸し出すからつい惹かれちゃうのだろう。お洋服は素材仕立て縫製・・地味でもオーラを放つものは沢山あって気配を感じよう。。変哲もない服が着る方とコラボレーションするからグッとステキさ増す。相乗効果が好きだから洋服屋さんをしてるのかだと思う。

  • Color

    会えば話の途切れない友人と会話。彼女の世界観はいつも私の刺激になる。彼女らしさが会話の隅々まであって彼女らしいなと学ばされる。個性的っていうのは、元来みんな個性ある存在でアルのが当然、十人十色のはず。十人十色、人それぞれ・・を受け止めて協調するから社会になるのだろうなぁーーーって感じた。人のことをアレコレ言う前にまず自分の色がどんな色なのかを知ること受け止めること知っていくことが必要だなって感じた。自分に色がないと生きにくい。色がないということはないはず・・自分にも必ず濃淡あっても色はあるはず一色では表現できない魅力であってもいいし一色じゃなきゃいけないわけでもない。私がどんな色になりたいカナってことも大切でどんな色に憧れてるかも大事。今まで外見だけ色付けしてどうにか誤魔化せたり作り加工できたように思う。リアルな社会は内側から放つ色がなきゃとメッキみたいに剝がれてしまう。内側が自分を色付け色染めして色を薄めたり調整も自分次第、周りからいつの間にか染まっていたりする人間関係や環境ってすごく慎重に大切にしなきゃなって改めて思う。私はカメレオンみたいなところあるから染まりやすい・・ニガ笑 いい意味では素直、悪い意味では無知で偏った一方的な視方しかできなかったり頭でっかちであったり、臨機応変・柔軟性がなかったりしてるところもある。そんな自分を直し調整する。だから、彼女のような存在は有難かったりする。コピーすることはできないしクローンにもならないけど、彼女のいいところは見習い染まりたい。染め合う関係ってどっちがいいとか悪いもないし、薄くても濃くても絵になるようにムラがあってもいいし、あえて染まらない純粋なホワイトもあっていい。

  • ライト

    ライトってカタカナで書くと・・想像しにくい light / right 英語が話せる訳でも得意な訳ではないけれど・・これからの時を表す言葉だなーーって思った。今まで 正:不正 ってこと正しいか正しくないかってことが多かった。その判断の基準は育った環境のモラルや周りや身近な人の考えの影響だったりした。その根本から揺らぐ言ことが多い。正しい正しくないって判断することが難しい。社会人なりたてころを基準にして私が意見や考えを言ったところで今は令和で環境も教育も違い当然と思う事の基準も違うのだから。。。自分の正しいと思う思い込み(自分の考え)がそもそも不正解というシーンがあることを頭に入れておかなきゃな・・って思う。自分をときに振り返り、疑う事(疑念)を持ってなきゃなーーって思う。自分の意見や考えを述べるとき、伝えるとき、言葉をしっかり吟味選ぶことを注意しようと。。つい癖、つい!ついつい!っことでひびが入ったりしてしまうことが起こってしまうから。ライトに!かるく!っていうのもいい捉え方も真逆の捉え方もある。身軽さってアクティブな印象だけど、軽率っていうと考えない無責任な印象に・・。心軽く・・だと明るく清々しさ感じる。ライトに~!!重くならず明るくいたい。重たく暗いこと多いけど、それも受けとめ方を変えていけたらな・・って思う日々。野菜高騰 お米高騰と燃料費高騰 高い安い価格の価値基準で物事をみたり感じたりしてしまう癖が根強い私。感謝できるように成りたい。はたらくって 傍がラクになるから働くらしい。。人が動くことと書いて働く。字をジーーーーーーーって眺めてみるといろいろ教えがたくさんある。漢字を読めない私がいうのもなんだけど・・・笑 ライトみたいに明るくいたい。笑

  • 都会・・

    外から刺激で楽しもうとするとキリがない。田舎暮らしはスマホはあまり必要ない、私の場合ちょっと俯瞰するとそれは情報という名のくくりにしたような雰囲気で半分ぐらい宣伝広告のようだし、都会では画面の大半がゲームしている人が多くてビックリした。その代わりリアルな本を読む人を見かけるようになった気もする。スマホ駆使できない無知な私には時間浪費の対象であまりにも危険・・笑 都会に憧れた時期もあるけど、今は 住めば都 という言葉のニュアンスが少し理解できるようになってる。都会 という字をジーーーッと眺めていると 都で会うモノが多いから都会といったのではないだろうか??なーんて勝手に想像してみた。 今はどこにいてもスマホで調べることもできるしアプローチやメールができる。いい例の子供たちが深く深く探求してるから大人以上の見識に分析力に想像力に技術があるからホント尊敬する。彼らが天才より秀才なのだと思う。きっとスマホの使い方もビックリするほど違うのだろう。そういう子にスマホの使い方やつきあいを聞いて教わってみたいなぁ。好奇心や興味を持つことって、理由理屈なく。楽しいおもしろいって感覚は、簡単にできないことが習得できるようになった間にあると思う。間、ってことがとても重要なんだなって思う。人と人の間、人と何かとの間、物質や結果よりも間をどれだけ丁寧に大事にしたかが見える時なんだなぁ。間を省いたら、生きてることじゃないような気がしてる。

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