AKO’S Monologue

  • スマート

    お店の様子がいつもと違うと・・・おもしろい。建物の外壁工事が行われるのに昨日今日とお店前にドドーンと大型トラックありで何事?!って感じ。この猛暑の外で足場を組む作業、エアコン効く室内のほほほほほんといてほんと頭が下がる。闊達な指示の声や応答の返事、足場の金属音カンカンカンと聞こえる日頃と違っていい。毎年このお盆過ぎは蝉しぐれのみで、帰省のお客様で賑わってからのこの時期ちょっと寂しく閑散、大体なにをするにしてもいつも一人で気楽とも寂しいとも思ったことないけど、人の気配があるのはいいものだなあと思った。なにか出来事、刺激があるって何かに気づける。手際よく進行するに要領がいるだろうしヒョイと軽く持ち運びされているにもコツがいるはずでスマートでカッコイイなって思う。大人になるって仕事にしても人との付き合いにしても生活全般にしても多様にできる事が増えていくことなのだろうと、ふと思った。一つを探求しながら深く知り極めていくことも素敵だ。さまざまな様子の変化に合わせ柔軟に変われることは大人要素のひとつなのかもしれない。お盆過ぎ移りゆく季節・・お洋服も時の流行に合わせ、季節や気候に合わせ、体形に合わせ、気分に合わせ、キャラクターに合わせジョジョに変化してるのが楽しい。接客の際中、着られる方のキャラクター!! 好きなテイスト、持ち物、ヘアースタイル、化粧、肌色も雰囲気だから似合う!ステキ!がある。大人が着るから醸し出す洒落っ気とても楽しい。だってその着る方が主役で彩りをくわえる脇役のアイテム。何を着ても似合わない楽しいと思えないってことは絶対ないただ見つかってないだけと思う。そして、自分が自分にきづいてない、気づけてないだけ。。

  • ZOOM

    グッタリ疲労・・というのが脳が刺激マックスでパンパン・・・zoomって有難い。場所を移さなくても受講できるセミナー。楽しみにしていた分聞き逃さないように集中するも途中で息ギレ、糖分ギレ起こすほど4時間強のブッ通しだった。集中力の無さを痛感。この暑さ体力疲労は毎日だけど、未知なる内容で頭フルフルで脳疲労は半端なかった。笑 頭柔らかい人はスーーーーーーっと浸透するように吸収されるのだろうなぁって思う。フィルターもなく抵抗もなくサクサクと入ってくる情報を処理するのだろう。そして、身につけ知恵となるのだろう。。学ぶ楽しさを感じるようになったのは大人になってからだ。。。笑 興味のある方へ惹かれる方へ進めることができるようになってからのこと嫌いな教科ができるの実は先生が嫌いだったり退屈な授業が原因だったり笑 元々性に合わないのもあるある。仲良くしてる友人も常に好奇心をアップデートしているから話題もつきずアップグレードしてるのが楽しくおもしろい。何でもいいから何か吸収していると動きになり変化になる。なんでも毎日のちょっとした行為。今の今の今を感じる。つくづく100年前は勉強はゴク一部の限られた人しかできない時代もあった、場所も時間も制約があった、そして、絶対にお会いすることもできないような方のリアルな考えや機会があるありがたい時代。自分で発掘していく好奇心のツボもあれば、周りの友人との会話きっかけで知ることもあったりする。楽しくおもしろく過ごすってライトな心やニュートラルに居るときにふわりとやってくるのかもしれない。ガチガチよりふわりとした包み込むような柔軟な女性が素敵と思う。そうなりたい。。

  • 足袋・・・

    和装にはコツと技が潜むそれは、真似て直ぐできるようになるものでは全くない。和装に限らず「道」とつくものは全てに言えることじゃないかなぁっと感じた。恥ずかしながらお茶を稽古してもらって早10年ぐらい経っているけど上達した気配は一向にない。お茶と私なりに付き合わせていただけているのも師匠と社中に環境に感謝だ。購入の際何かされているの?と尋ねられ お茶を習っていますと時間だけ経っているような私が言ってしまった冷汗 お恥ずかしいかぎりで恥じらいは自分を知るところだなーーって思った。奥深いものに触れると浅はかな自分を知る。奥深いもの=勉強ではないこと。着付けに茶道に奥が深くて楽しい、コツとテクニックも流れあって意味あるものばかり理にかなっている。1歩進み2歩下がるようなタイプの私はなかなか積み重ならないけど時間をかけてできることが向いているのかもしれない・・そういえば、なんでも時間がかかるし躓きコケルタイプだった。笑 なんでもかんでもすぐできる器用の方じゃ決してない、何度もこけて自転車と同じで乗れるコツをつかめば・・・ってところ。焦らずにマイペースにいこう何でも。知らない誰かと競うこと勝ち負けじゃない自分なりしっくりくるタイミングでコツがつかめるはず。。。自分の美学に沿っていこう。美学ってその人の行動の種なんじゃないかなぁって思う。夏休みやりたくないできないほどの宿題に多くの課題のある学生、学生なんて2度とできないと思うのは私だけ?だろうか? 勝ち負けにこだわるよりオタク級の趣味がある子はきっと道ができ花が咲くと思う。  

  • 足袋・・

    お店の扉を開けるなり「あなたに合うサイズの足袋ないよ」と言われた。全国放映され無くて当然でしょうと相槌。すると「足袋の選び方と買えるところを教えてあげるからよかったらあがって」と優しく仰って下さった。お言葉に甘えて居座り色んなお話を聞いた。江戸の火消しの旦那さんの為に火粉が足首に入らないように火傷しないように工夫していった女将さんの思いが原型で始まりだと・・(間違っていたらごめんなさい)単価・効率・売上げとかそうなってる時代だからなぁーー生きてくにゃ稼ぎがないとやっていけないでしょ 事実~コロナで全部停まって廃業やめちまったりあったと うちもどうにかこうにかやってこれたのも不思議なもんでね~みたいな噺家さん調でのお話を聞いていた。足袋はハーフサイズ刻みで4種類の型があったそうで、私も靴を扱うからわかるわかるって凄い数量の在庫になる。そして人それぞれを痛感させられるアイテムだ。足も体調と同じで日によってむくみ加減も変わるし馴染む靴が突然靴擦れになったりと思い当たる。たまたま!私の足が男性サイズだからたまたま!細型がポツンと量残っていた・これぞシンデレラ!笑 今までの人生でナイナイばかりだったのにこの度(足袋)は珍×レアが功を奏して超有難かった。しっくり凜とする履き心地の足袋は今まで経験したことないものだったし、見た目にとても上品で美しかった。男性みたいに見える足を格上げしてくれる足袋だった。和装は着方は勿論のことだけれどもサイズが極みだ!!大きすぎても小さすぎてもいけない。超絶妙な加減。そんな些細な加減と些細な工夫の施せる知恵ある日本人だったことを誇りに思った。細やかさというのは一人一人それぞれに合わせられるという優しさと思う。そして、その些細なものから感じ取れるのが気品やオーラや目に見えないものだと思う。目に見えないけど感じられる感じ取れるってそういうことってとっても楽しい。感じ取れる者同士のテレパシーみたいなものだと思う。

  • 足袋

    ここ最近 暑さのせいか・・元々だと思うけどいっこうにまとまらないので・・・このモノローグも更新できていないまま。まじめさ努力などが当然とつい思ってしまう私は仕方ない。。まじめさと努力って加減を間違えてしまうとよくないと思う。熱心なこととまじめさ、集中することと努力って似てるけど違うもの。はき違えないようにしなきゃなと思う。水やりを毎日して植物の様子観るようになって芽が出れば枯れ散る葉を見ながら新陳代謝の移り替わりを感じる。時とともに無くなっている物、事、技、文化を感じる。東京四ツ谷の足袋職人さんのことをTVで知り8月いっぱいで閉店告知されていて出張中チャンスと訪れた。馴染みの方がいらっしゃるだけで江戸っ子職人さんで笑 聞き取りにくかったこともチョクチョクあったけどゆっくりお話することができた。剣術と剣道のちがい。柔術と柔道の違い「術と道」の違いをとてもシンプルに教えてくださった。術というのは勝ち負けに特化したもので道というのは相手に敬意をもって接し調和の和をもつことだと私なりの理解。足袋というのは道の方々と接するからだと思う。道というのは和を以て貴しとなす。決して勝負ではないと。。。茶道を習い切磋琢磨、精進する自分と向き合うこと。お師匠より教わること。決して勝ち負けはない。見渡すと周囲がすべて勝ち負けになってしまっていてハッとさせられる。もう足に合わせて型紙を作れる職人も日本0人でいないと仰っていた、その型紙を起こす道具もずいぶん前から無くなっていたそうだ。。道という日本人の芯みたいなものが無くなっているのと同時に職人もいなくなる。

  • なごみ

    ふと教えて頂いたことで広がり深まっていく好奇心・・とっかかりは カルーーい。食には食わず嫌いだけど・・推薦されたことはできるだけ感覚でアクションしている。お茶の先生と芭蕉布の話を以前したこと覚えててくださり、よかったらと渡された小雑誌「なごみ」淡交社 お茶から広がるお菓子や食、書、古典題材からの日本の古きをしることができる。めっちゃハマってまーすとlineしたところ・・あなたのジャンル外と思ってた・・お茶では師匠と弟子、お店ではお客様、女性として付合いも長いのにどんな印象だったんだろう? いろんな面があるのが人間と思う。好奇心向くもの趣味も興味もハマれるものや何か好きがある人って魅力あってイキイキしている気がする。「わかる=理解」というのも、分けるから発生してると聞いたことがある。分けてもらったもので知り分かる=共感 というシンプルな構図。今さらながら日本語・・奥深くて繊細で可憐で面白い。ニュアンス感じるのに難しく表現の大さとビミョーな違いと私の脳力というか理解できてない未知ばかりで恥ずかしくたじろぐこと増えている。表層ファッション目だけの情報(スマホ)だけじゃない、リアルがもっと大切でもっと体験が浮き彫りになると思う。言葉選び使い方からでる人柄、口調と振る舞いから出て感じるもの 丁寧に一語でシンプルに表現できる方ほど器量の大きさを感じる。思ったこと感情を混ぜ直ぐ口にする単純さと、沢山から厳選され無駄を排除されたシンプルって全然全然違う。微妙なものをどれだけ気づき感じれるかで楽しめる幅も面白さもどんどん変化すると思う。洗練という日本語は素晴らしいとつくづく思う。

  • 手抜きorべんり って紙一重・・見え方が違うだけのような気がする。そうめんを食べながらフト・・衣替えならぬ器も季節で変っていたことを思い出した。食器棚の手前に夏のガラス食器を奥に鍋の取り皿などに移動していた多分小学低学年ぐらいまでしていたっけ??と母と懐かしく会話した。母の実家では、家が夏の装い襖をとり簾に風鈴、おじいちゃんお手製の網戸、涼生活になっていた。夕方祖父が打ち水をしていたこと 夏の風物詩のようなシーンが思い出される。今朝も先生とご一緒に児玉公園の児玉源太郎の命日(藤園忌)因んでのお茶会へ。藤色、藤の花の香合、7月24日が命日で数珠草と黒ほうずきが経筒に活けてあり、思いと祈りが表されていた仏と供養につながる道具組だった。手間をおしまず、手入れってコトバを感じる。ナス、きゅうり、かぼちゃだって勝手に育ち実ったものではないし牛乳だってお米だってパンだってただの商品(もの)と見るか・・最近、私は自分では作れない・・自分ではできない!代わりに人の手と労力で作ったものを感じる。物価高騰とインフレが日本を覆っているけど、そもそも自分で作れば??って言われたら、何一つ作ることができない事を思い知らされる。誰かのお陰で作られたものを頂くと思えばすべて有難い。物をどう見るか?事をどう見るか?梅雨があるから水不足に悩まずお風呂も毎日浸かれ汗を流せる。太陽のおかげで洗濯物もカラっと乾き気持ちよく衣類もタオルも使える。シミや日焼けよりもある程度の日光浴ができるから心身共に健康でいられる。植物があるから酸素が吸える・・全て見えないお陰様で生かされてることで、今あることを思えたら自分都合の自己解釈だけでのコトバを発する幼稚さを改めたい。何も言わないものが偉大だ。。

  • 語彙

    願いを口にしたらいいというのでブログにして表現している。言葉にしたらいろんなことが実現したことは体験している。まず自分が素直になってみる。自分都合はやめなきゃ周囲の助け協力者は絶対現れない。綺麗(美しい)という単純な見せかけのみでは決して通用しない。昔の人は きれいごと って皮肉っていたそう言えば〜。。トータルの人物像 ふるまい態度、モノを扱う心、言葉遣い(相手への思いやり)気遣いがますます重要になっていく。表面を作ればどうにかなっていた時代は終わった気がする。映えて見せていた時も一瞬。。見透かされてるっ私をちょくちょく感じるから憧れや理想や夢が持てたりする。恥じらいって日本から消えてる言葉になった。消える日本語は同等の消え失った心を現す。日本語の衰退が人の本質の衰退を倍増させて、社会の衰退に加速させていると思う。素敵と思う方は語彙の使い方も表現センスも素晴らしいから憧れる。社交で語彙をキチンと使いたい、そして日本語の勉強をしたいと思っているこの頃。

  • KIREI

    美しい が好きというただそれだけ・・。その奥に憧れがあってその深層に 私がそうではない という認識があってしっかり底に根をはって40年以上になるからと思う。私は自信があるのでは決してない。ただちょっと意思表示はしてることと、線引きが点線もあればくっきりした太字であって、その線もないようなところも多いという事。好きはハッキリしていることと同様に、お洋服の似合う似合わないがハッキリしているだけのこと。笑 オシャレを楽しむ行為も千差万別で老若男女問わず人それぞれの見えない深層の something を良くしたいを物質的に表したファッションを楽しんでるのだと思う。綺麗というのは世界共通、美しいというのも世界共通。そして、オシャレ心というのも世界共通。芸術すべて世界共通でステキだなーーっていうのはいつもどこでも以心伝心する。だから、わたしは綺麗になりたいし!キレイでいたいなと・・願いつつちょこちょこっといろんなことをマイペースにやっている。人と比べるのではなく自己更新でわたしのテーマ「美しい」ことなのだと実感する。美しいって感覚も人それぞれで正しいも不正解もないこと。本人基準で感じられるのがいい点で本人の基準値が大切と思う。最近、いろんな方と接していながらキャラクターだと伝えることがある。キャラクターが年々確立されてくるからしっくりくるものを着たらイイっ!!って感じるはず。中途半端な妥協はやめよう・・妥協点も人それぞれ。。。ただ私としてはその方に似合うGOODやBESTをご紹介したいし、その方のお好みに沿うGOOD&BESTの服でもっとステキな人が増えたらいいなと思うだけ。。 

  • 日本語

    もともとコミュニケーションが下手な私だった・・そして、今また日本語の壁にぶち当たっている 笑 表現力の乏しさとシンプルなわかりやすい伝え方、そして、きちんとした日本語の意味と解釈ができていないと感じている。語彙力の足りなさを・・・。海外旅行中はこんにちは。ありがとう。ごめんなさい。さよなら。でどうにか過ごせていたけど・・笑、日本ではそうはいかない。笑 難しいことをいう事があるわけではないけど、スマートな話し方がある。センスのいい言葉を使う人に惚れ惚れしてしまうし、憧れてしまうし、その人の心の内と思考の内が見えてしまう。オシャレ ≠ センスいい ≠ 流行りを着る って思っている。今までファッション業界はトレンドと流行を追っていたけれどそろそろそういう物ではなくなってきていると思う。今まで着てきた経験&買ってきた経験値&気分&好み&シーン 人それぞれの思考の内が一部表面化しているのが服だと思う。なにかあって今その服を選んでいるのだから・・。見えていなかったものが見えてきているような気がする。隠していたものも現れているのも事実。人と人が出会い安易に日本語を使って話しているけど多岐にわたって見え始めている。行動一つにしても・・しぐさひとつにしても・・。昨日お客さんにふぅううの溜息ひとつもハラスメントになると聞いた。。溜息だっていろんな溜息もあるだろうに~ニガ笑  きちんとした日本語を使用してズレのない会話ができるようになりたいなと!!これから身に着けておくべき必要なものかもしれない。

  • 幻想

    王宮の庭やパラソル並ぶカフェのある通りや厳かな教会のある広場で、目にする日本人は私だけ・・なんだなぁって思うシーンがあった。そのとき感じたのが、一人一人が別の個性をもつ存在【すべては違う=同じ人は一人ともいない】ということ。日本だとみんな似ている雰囲気でいると同じと錯覚してしまう環境になってしまうと・・。印象だけならほぼ黒目で黒髪で近しい雰囲気・・日本にいると同じ=いっしょと視覚から自然と勘違いがおこる、コミュニケーションの前提が同じ(いっしょorわかる)からになってしまうと気づいた。だから、自分と違いになぜだろう?どうして?と考えたり、差異を感じ否定や攻撃になって出てしまうのだと感じた。そもそも親子、兄弟も別人格で「個個ちがう」地球のすべて人が一人単位で違う性質の存在ということを認識して【違う事】が当然だと社会生活を送れば、主張する前に双方互いに歩み寄るようになるではないかなと思う。社会生活を円滑に送るには違う者同士だからルールや見えない道理や倫理感でより心地よく過ごせるのだと思う。主張したものだけの意見、どちらか片一方に偏りつつあるのが今の日本じゃないかなぁっ・・。もし社会ルールが交通ルールの信号だとしたらどうなるか大事故や大渋滞混乱するのが想像つく。違う環境で育ったそれぞれの世代、性質や能力や体力も違う個人個人が社会生活を円滑に行うようにある程度の社会ルールがなきゃ成り立たない。ある程度って・・どこがおとしどころなのだろう?マナーって社会生活で周りに迷惑をかけない為の見えない良識似ているや理解し合えるし合おうとすることや気が合うという事が奇跡と思えばいい、公平はあっても同じは幻想と思う。

  • vienna1

    ホテル1階表示0・・それも違う、エレベーターも独特な扉の開きと閉まりだけで日本じゃないなぁーーって思う。独特が豪快というコトバがいいのか、まるで秘密基地のラボの扉が開くというような・・映画のワンシーンみたいなかっこよさもあったりする笑。だから毎回乗るたびにワクワクしていたりした私。。笑 ちょっとしたスタンド(ケバブやホットドッグ)お洋服屋さんやスーパーで買い物する度いろんなことを感じた。どんなシーンでもお客様=日本的~『様』扱いはない。当初こちらが何かしたかと気になったけど、通常通りで愛想を振りまかない媚びないだけで質問したら答えてくれて過剰がないのが印象的だった・・シンプルなだけ! 日本はよくよく視ると過剰や過敏なところが多すぎる接客含みそれ以外も・・例えば、電車やトラム乗ると駅に改札もなければ切符もチェックされない出発ホイッスルもない笑 ユーロ圏お住まいのお客様との会話でスタンスの違いよねと一言。社会ルールの中ですべて自己判断責任というスタンスの考えと真逆の日本。最近のモラハラ、カスハラ、ハラスメントなどもなぜ起きるのか?って嘲笑される気がする。いつまでベイビー=子供扱いしてるの??って聞かれそう。社会人=大人という事を考えさせられた。。。大人同士ならお互い冷静に意見を交換し合えば違うんじゃないだろうか??日本に感傷的にならず冷静に物事を見聞きすることができる人が今どれくらいいるのだろう?

  • vienna

    ウィーンって音楽の都というイメージが多いけれど、アドラーやクリムトはじめ画家やアドラー、シュタイナー、ヴィトゲンシュタインなど心理学者、哲学者や思想家などもいた場所。時代は違い当時どんな様子だったか想像もつかないけれど、第一次、第二次世界大戦もすぎ14世紀15世紀の建物の旧市街はそのままの雰囲気を残している。建物の扉の開いてる建物の中から見える階段の美しさ、アーチの向こうはプライベートの領域なのか気になりつつ入っていいのか悪いのか行くと窓越しに老舗のお店が並ぶ通りだったり、中庭をオシャレに緑いっぱいにしたレストランだったりと好奇心のそそる方へ行ったら素敵な一角に出会ったり、一方通行の多い車道や緩やかにカーブしている道が多かったりすぐ行き止まりかと思うように直角に折れてる古道があったり迷路のような街でもある。大通りはトラム(市電)片道4車線の車道に歩道と自転車道と交差点も複雑で向こうに行くにもどこで信号待ちしていればいいかわからない交差点もあったりする笑 幼稚園や小学生のように道路を渡るのも苦労したり・・笑 ただ街ぶらするだけで十分感覚を刺激される。すれ違う人の体格の違い、服装、ヘアー、トータルスタイルを眺めておくだけでもいい。「ALL O.K.」なのだと街自体がそういってる気がしてる。こうじゃなきゃいけないっていうのは思い込みと過去と周りからの価値観なのだと。。そして、すべて自己責任というところもあったりする。つづく

  • トリップ

    長期お休み・・こんなにも長期はコロナ以前4年ぶり・・ちょっと罪悪感があるのは気のせいではない・・笑 どっぷり日本人っぽい私自身を感じる。生活の中で長期休暇馴染みなく、働き者じゃないけど、ルンルンはずむのは65%といった感じ。こうして留守となると今朝いつもと変わらない掃除や植物の水やりの様相がいつもと変わり俯瞰してみえたり遠巻きにお店を感じてちがってみえてくる・・・非日常になる前に普段の日常にさえもありがたいことを・・旅前から感じはじめてる。旅に行くことができる事もだけど、日常のしあわせを・・。まったく同じわたしなのにこんなにも感じることが激変する。トリップは小旅行の意味もあるけど、薬物を用いて幻覚症状がみえることを指す言葉でもある。。薬ではないけど旅は、日常や日頃の環境を変えて見せてくれる作用があるのかもしれない。洋服を着て楽しむのも中毒症状のようなところあって旅もまた同じだ。笑 ネットニュース記事で控えていることベスト3に(1:旅行、2:外食、3:洋服、)となっていた。全て我慢するのはムリだけどどれも体験で気付き&感じさせてくれ生活に見えないところで彩を加え心身を新色と進化させてくれる要素のような気がしてる。今回、五感はもちろん第六感すべてでたくさん感じてきたい。きっとこれからの私生活の充電とスイッチになるような気がしてワクワクしてる。。いってきます。。

  • HANA

    毎月東京へ宇部空港利用すると、この時期は日の出も早くなり薄っすら明るくなりつつある中、バラの爽やかな香りに包まれて沢山のバラが咲いているんだろうと感じつつ見るまもなく・・香りだけで旅立つ。近所のずっと空き家の庭にもクリーム色のバラを毎年咲かせている。通勤途中の旧国道街路樹横にもピンク色のバラ。株の大きさの割には多くの花をつけて満開に咲いている。人知れず誰かがお世話している気配がする。蕾では全く目に留まらないのに、咲いて散る間際に気づく。。前に行ったモロッコのダマスクローズの村はもう一度行きたい場所の一つ。バスの中から見える景色は荒野の砂漠で砂ほこり交じりの街を過ぎてバスから降りたらダマスクローズの香りが充満していてホント感動した・・り薫風のような心地いい甘さある香り。ローズもたくさんの品種の花の咲かせ方、形、大きさ、色をつけている。最近よくバラに目が留まる・・周りや外に向けて咲く人間とは違いバラとしてただ咲いてる様子を見ながら 「バラはバラとしてただあるだけ」周りの目、他人の言葉(口)他人の価値観(基準)評価を気にしない自分と思い込んでいたけどマダマダだった。笑 わがままとあるがまま、ありのままってちがうなぁってじわじわ・・わがままかな?って半信半疑になっちゃうこともあるけど、  目先に囚われず理想を追う!  理想はそれぞれ個個。旅だって行先と目的があるから順路や計画が細分化できる。一つ一つ細分化されたものをすっ飛ばしている様子をあちこち感じられる。すっ飛ばしてできることなど一つもない・・。あちこち咲くバラのように、咲いてるときだけ目をやるようなもの。桜だって新緑の葉をつけた葉桜をみるひとは少ないはず。花も結果も地位も細分化された一つの過程。環境にも大事な人にも自分自身にも・・細部に目がゆきとどく大人になるときっと濃度の高い時を過ごせるような気がする。。

  • DERU

    何事も経験〜と安易な考えで超満員電車に遭遇してしまいめっちゃイヤでしょうがなかった。久しぶりのストレス強。こんな思いは二度としないって思った。私は今までこんな思いが原動力になってきている。イヤなものから避けるにはどうすればいいか?イヤな環境に交わらないですむ生活。避けるというより出る(離れる)と捉えてる。出るの「でる」は出る杭のでるだ。どうやったらその環境や人間関係から脱出できるか?を考える。ただ逃げる=避けるではなく、そこに交わらないで済むようになるにはどうなればいいか?を想像して、理想の環境と人間関係に近づくと思っている。なりたいものや理想が持てないなら逆からの発想があっていいと思う。利己的な意地悪な人と交わらないですむには学生時代は思ったもの笑笑。ゲームの好き子供にずーーーーっとゲームしていられる生活したいなら、できる理想の生活するにはの手段を考え想像させればいい。避ける ということが悪じゃないなーって、どう避けて出るかだと思う。そういうときに自分のわがままぶり(あるがままぶり)を発揮するチャンスだ。笑笑 自分を自分でプロデュースするが生活の素。

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